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箱根駅伝「天国と地獄」 優勝3度の山梨学院大学の名将が明かす 抗議が殺到した「留学生ランナー第1号」が“雑草軍団”を初優勝に導いた!
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2023.12.24 06:00 最終更新日:2023.12.24 14:43
「1989年のデビュー戦(第65回大会)は鮮烈でしたね。1年生なのに、2区で7人も抜いて。結局、4年連続で2区を走って3度の区間賞。彼が4年生のときに山梨学院大は初優勝できましたが、物議を醸しました。
というのも、今では留学生ランナーの登録は2名で、実際に走れるのは1名ですが、当時は留学生ランナーに関するルールは何もなかったんです。大学には『箱根駅伝で黒人なんか使うな!』、外ではなく害の字を当てて『“害人”を走らせるな!』という抗議の手紙が多く届きました」
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そう話すのは、1985年4月に山梨学院大陸上部の駅伝監督に就任し、2019年1月まで同チームを率いてきた上田誠仁氏(64)。上田氏が「彼」と言うのは、留学生ランナーの“第1号”として強烈な印象を残したジョセフ・モガンビ・オツオリのことである。
前回大会には過去最多の7人が出場するなど、近年は留学生ランナーの存在は珍しくなくなった。だが、オツオリが来日した約35年前は事情が違った。26歳で、陸上部の創部と同時に監督に就任した上田氏は、ゼロからチームを強化していくなかで、留学生の受け入れというアイデアを思いついた。
「当初は部員わずか8名で、そのうち半分は未経験者。就任の話をいただいたときは、山梨県の大学が(関東学生陸上競技連盟主催の箱根駅伝に)出場できるかもわかっていない状況でした。箱根を目指す以上、まずは選手をスカウトしなければ始まりません。
ただ、地理的なハンデの大きい山梨の大学に来てくれる選手はなかなかいませんでした(笑)。就任2年めに予選会を突破し、本戦に初出場しましたが、10人中9人が1年生だったチームは最下位。翌年11位まで上げることができましたが、チーム力強化のためのカンフル剤が欲しいと考え、留学生を招こうと思ったんです」
オツオリ以降、山梨学院大では多くの留学生ランナーが箱根を走ってきたが、全員がケニア出身。なぜかといえば、当時エスビー食品に所属していた実業団ランナーのダグラス・ワキウリがケニア出身だったことがヒントになったためだという。ワキウリは1987年にローマの世界選手権で優勝し、1988年のソウル五輪で銀メダルを獲得している。
「ワキウリを見たときに、彼らはどんな環境で、どんな練習をやっているのかと思いました。理事長を説得し、(ケニアの首都)ナイロビに視察に行くと、優秀な選手はスポーツメーカーにスカウトされ、欧州のクラブチームかアメリカの大学へ行く流れだということを知りました。そこで、日本の大学に来る選択肢もあるのではと考え、会場で出会った指導者にオツオリらを紹介してもらいました」
■留学生受け入れに選手たちからは反発の声が……
しかし、留学生を受け入れようと思っても、当時は前例がなく苦労は絶えなかった。
「受け入れにあたっては、学生から『なぜ、言葉も文化も違う留学生と一緒に練習しないといけないのか?』と、反発の声が上がりました。なので、いったん全員に退部届を出させて考え直す時間を与えたら、最終的に全員が戻ってきてくれました。
文化的な違いも大きく、寮に着いたらいきなり土足で部屋に上がるとか、食事に出されたトマトやカイワレ大根などの生野菜を熱湯につけて食べるなど、おかしいことはよくありました。ケニアでは(衛生面の問題もあって)野菜を生で食べる習慣がなく、食べても問題ないことを理解してもらうために、目の前で“毒見”をしたこともありましたよ(笑)」
1989年にオツオリに加え、ともに来日したケネディ・イセナの2人が箱根初出場で7位。そこから4位、2位と順位を上げていき、就任7年めの1992年に初優勝を飾った。オツオリの強さは群を抜いていたが、人間的にも素晴らしかったと上田氏は述懐する。
「オツオリはとても真面目で責任感も強く、自分から率先して駅伝に取り組んでくれました。たとえば、6時半からの朝練にしても、オツオリが集合時間までにしっかりウオーミングアップして来るものだから、ほかの選手もつられるように早めに準備し、練習が30分ほど前倒しになったくらいです。
留学生は有力選手を来日させていると思われるかもしれませんが、有力選手は欧州やアメリカのスカウトが先に接触するので、日本に来るのはそれに漏れた選手なんです。来日時のオツオリの記録は5千メートル14分26秒で、当時の世界ジュニア記録と比較すればそれほど速くはありませんでした。
イセナも、4年時こそ3区で区間賞を獲りましたが、1年のときは緊張してしまってか区間15位。あまりの遅さに逆の意味で観客がどよめいたのを覚えています。日本に馴染むのにも苦労し、当初は『本当に陸上をやってきたの?』という感じでした(笑)。
あらためて思うのは、彼らは途中で帰国することなく、最後まで学生生活を送ってくれた。それがなければ、後に続く留学生の存在はなかったでしょうね」
オツオリと入れ替わるようにステファン・マヤカ(現・桜美林大駅伝部監督の真也加ステファン)が入学すると、1994年には渡辺康幸らを擁し、本命とみられた早稲田大との勝負を制し、史上初の10時間台での2度めの総合優勝。翌年に連覇を達成した。
その後も、山梨学院大では留学生ランナーが活躍する伝統が続き、2009年の85回大会の2区で、早稲田大時代の瀬古利彦以来、29年ぶりの2年連続区間新を達成したメクボ・ジョブ・モグスらの活躍が印象に残っている。
■箱根のプレッシャーで脱毛症に苦しんだエース選手
「留学生をスカウトする際は、たんに走力だけではなくて、日本の文化に馴染めるか、チームに溶け込めるかなども重視していたので、彼らが活躍してくれたことは嬉しかった。ただ、大学は選手が毎年入れ替わるので勝ち続けるのは簡単ではありません。
私自身、優勝もありましたが、途中棄権も2度経験しています。そのうち2014年は、エノック・オムワンバのとき。疲労骨折という突然のアクシデントでしたが、期待していただけにショックは大きかったです」
“雑草軍団”を率い、わずか2年で予選会を突破し、7年で初優勝を果たした上田氏は、箱根駅伝で天国を見た。ただ、勝ったからこその苦しみも味わった。
「優勝後は、マネジメントの点で新たな難しさがありました。1994年の2度めの優勝時に、アンカーの10区で区間賞を獲得した尾方剛は、卒業後の2004年に福岡国際マラソンで優勝し、2005年には世界選手権で銅メダルを獲得しました。
彼は優勝時2年だったのですが、勝った後は自分の感覚と世間の評価との間にズレが出て、自分の走りができなくなっただけでなく、脱毛症になるほど苦しんでいました。今でこそ『あのころはつるっパゲになっちゃって…』と笑い話にできますが、彼が箱根を走ったのは、結局その一度だけ。それだけ箱根のプレッシャーは大きかったということです」
2016年から2018年にかけては次男の健太さんと、監督と選手という関係で箱根駅伝史上初の父子鷹で注目を集めたが、思ったような結果を残せず。2017年からのラスト3年は、いずれもシード落ちで、2019年限りで駅伝監督を退任した。
「息子は付属の山梨学院高出身で、高校駅伝で日本一になったメンバーと進学してきました。そんなメンバーがいたのに、シード落ちが続きました。最後は理事長から『もう潮時では……』と言われ、以降も陸上部に籍はありますが、駅伝プロジェクトには関わっていません」
上田氏は、現在も同大でスポーツ科学部教授を務め、関東学生陸上競技連盟では駅伝対策委員長として箱根駅伝に関わっている。最後に、第100回を迎える箱根駅伝に向けての見どころを聞いた。
「注目は、駒澤大の2年連続の大学駅伝三冠なるかですね。青山学院大、中央大、國學院大あたりが優勝争いのライバル校とみられていますが、はたして駒澤大に待ったをかけられるのか。シード校争いも例年以上に熾烈ですし、長年箱根に携わってきた身からすると、全チームが無事に最後まで襷を繋いでくれたらと思っています」
取材&文・栗原正夫