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箱根駅伝「天国と地獄」神奈川大エース「花の2区」で“17人ごぼう抜かれ”のワースト記録! チームもシード落ちのW悲劇
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2023.12.24 06:00 最終更新日:2023.12.24 06:00
過去99回の箱根駅伝の歴史のなかで、さまざまなドラマが誕生した。そのなかでも“天国と地獄”を経験した一人が、神奈川大在籍時に箱根路を4度走った原田恵章さん(43)だ。神奈川大は1997年、1998年と箱根を連覇しているが、原田さんはそんな先輩たちの雄姿を見て、自分も“プラウドブルー”の襷を繋ぎたいと思い、1999年に入学した。
2000年の1年時に3区で箱根デビューした原田さんは、2年時に9区、3年時は2区をまかされて往路優勝に貢献。4年生になり最後の箱根もエース区間の2区での出走が決まり、目標は総合優勝だった。だが、7年ぶりにシード権を逃す原因のひとつとなってしまった。
原田さんは2位で襷を受け取りながら、区間19位と大ブレーキ。スタートから600メートルで山梨学院大のモカンバに捕まると、後続のランナーに次々と抜かれ、1区間での“17人抜かれ”は今でもワースト記録として刻まれている。
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「4年生になったころから体のバランスが崩れ、うまく力が入らない状態が続いていました。調子の悪いなかでも前年秋の出雲駅伝、全日本大学駅伝ではしっかり走れていたので、『箱根も大丈夫だろう』と信頼して起用してもらいました。
入りは悪くなかったんです。ただ箱根の2区は、ほかのどの区間とも次元が違いごまかしは効きません。独特な雰囲気があって、みんな序盤から突っ込んでいきますから。そんななか、そこまで悪くないのに後ろからガンガン選手に抜かれると気持ちが焦ってしまい、脚に力が入らなくなってしまった。
途中からは頭が真っ白になってしまい、記憶はほとんどありません。唯一覚えているのは、テレビ中継でバイクリポートのカメラがすごい近くまで来て、『神奈川大の原田が……、まさかの……』とリポートされていたことです(笑)」
原田さんの失速はあったが、神奈川大は3区以降で8位まで盛り返し、往路を終えた。翌日の復路も、9区を終えた時点で6位につけていたが、10区の選手が区間最下位と振るわずシード圏外の11位まで順位を下げてしまった。
「大きなブレーキは学生生活で初めてでしたし、走り終わった後は人に会うのも嫌で、寮の部屋からは出られませんでした。救いは、後ろの選手が頑張ってくれて往路は8位だったこと。ただ、最後にシード権を逃し、自分としてはダブルパンチを喰らった気分でした。
しかも翌日の新聞に『神大エース、17人に抜かれ大ブレーキ!』と大きく書かれていて……。2区では同学年の順天堂大の中川(拓郎)が15人抜きをしていて、中川と対比するように酷い書かれ方でした。いちばん酷かったのは『産経新聞』だったかな。悔しいから、今も実家に保管してあります(笑)」
大会後にチームの打ち上げなどがあったが、そのときはチームメイトや関係者にひたすら謝っていたと話す原田さん。
「今でこそ笑い話ですが……。でもその後も、同期や仲間うちでブレーキの話題はあまりふれられなかったし、箱根駅伝のこと自体、自分から話すことはありませんでした。あれから約20年経ちますが、詳細に当時のことを振り返ったのは、今回の取材が初めてかもしれません。
いま思えば箱根に4年連続で出られて、そのうち2回は『花の2区』と呼ばれるエース区間を走らせてもらったのは誇りです。でも、神奈川大では伝統的に絶対的なエースがいなくて、2区は他大学のエースと競り合わないといけないので、どこか“やられ役”みたいなイメージも強く、できたらほかの区間がいいなという思いもありました。そうしたら一度くらい区間賞を獲れたかもしれません(笑)」
大学を卒業後、原田さんはエスビー食品、東京電力などの実業団でも活躍した。今は会社員として働きつつ、都内でランニングクラブの代表を務め、将来は箱根駅伝で活躍できそうな若手選手の育成にも力を入れている。
「箱根の失敗が、その後の人生のバネになっている部分はあります。やっぱり、どこかに見返したいという思いはありますから。クラブのジュニアエリートコースには、可能性のあるコも多いので、将来が楽しみです」
取材&文・栗原正夫