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【阪神淡路大震災から30年】元オリックス・佐藤義則「発災時、友人の船で自宅に」…伝説の「開幕投手、ノーノー」の舞台裏

スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2025.01.16 13:46 最終更新日:2025.01.16 13:52

【阪神淡路大震災から30年】元オリックス・佐藤義則「発災時、友人の船で自宅に」…伝説の「開幕投手、ノーノー」の舞台裏

佐藤義則さん

 

「1月中旬は毎年、後援会を交えたゴルフ大会があるんです。大会翌日の1月17日には東京で学生時代のOB会が予定されていたので、僕は神戸の自宅に戻らず、大阪市内のホテルに泊まりました。

 

 熟睡していました。結構な揺れに驚いて目覚めると、テレビがデスクから落ちていたので元に戻して、スイッチを入れました。芦屋(兵庫県)の高速道路が崩壊している映像などが次々に流れてきて『これは、えらいことだ』と呆然としました」

 

 

 元プロ野球選手の佐藤義則さんが、1995年1月17日に発生した「阪神淡路大震災発生時」の様子を冒頭のように語る。その後、家族の無事は確認できたそうだが、ホテルでの避難生活を余儀なくされた。

 

「発災当初は大阪から神戸に戻る交通手段がなかったので、友人の船を使って自宅に戻りました。それから1月末まで家族ともども大阪のホテルで避難生活。ホテルはエレベーターこそ止まりましたが、食料や水などは確保されていました。しかしチームメイトと連絡が取れなかったこともあり、2月1日のキャンプインを前に、とても孤立した気持ちでした」

 

 オリックスの仰木彬監督からは「家族の様子次第では、キャンプに参加しなくてもいい」という説明があったという。

 

「それでもキャンプ初日には、ほぼ全員が揃いました。実家から駆けつけた選手も多かったようですね。

 

 そして掲げたのは『がんばろうKOBE』のスローガン。選手たちは被災した家族のことが心配で練習に集中できないこともありましたが、この言葉でチームはひとつになりました」

 

 そして佐藤さんは同年の開幕投手に指名された。40歳だった。

 

「交通もまだ完全復旧していないので、ファンの皆さんは球場に来られないと思っていたんです。ところが連日、球場は満員になりました。ブルペンに向かうとき、ファンが声援を送っているスタンドを見て驚き、感激しました。

 

 そして仰木監督のもとでチームが一つにまとまったことは間違いありません。監督の采配もすごかった。試合に出る選手、みんなが活躍した年でした。だから僕のノーヒットノーランなんて、おまけみたいなもんですよ(笑)。

 

 ただ、僕自身のことで言えば『自分が投げることで自分もがんばり、皆さんにも元気になっていただこう』と思ってマウンドに立ったことは鮮明に覚えています」

 

 未曾有の震災を経験して、佐藤さんは「助け合うことの大切さ」を実感したという。

 

「後輩が住むマンションでは、住民が総出で行方不明の子供さんを探したそうです。子供さんは家の中にいて、幸いにして無事だったそうですが、『何かあったらみんなで一緒に』ということの大切さを、これからも胸に秘めていきたいですね」

 

さとうよしのり
1954年生まれ。北海道奥尻町出身。函館有斗高、日本大学を経て阪急(のちのオリックス)入団。1995年8月の近鉄戦で史上最年長(=当時・40歳11ヶ月)ノーヒットノーラン達成。同年、初のリーグ制覇。2020年「関メディベースボール学院」で投手コーチ就任。オンランサロン「ピッチングラボ」を開設。

( SmartFLASH )

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