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【釜本邦茂さん死去】Jリーグ生んだ「反・勝利至上主義」という反骨信念…本誌秘蔵写真で綴る “漢気伝説”

1994年、ガンバ大阪の監督を電撃解任された真相を本誌に独占告白した釜本氏
“日本サッカー界の至宝” 釜本邦茂さんが、8月10日午前、肺炎のため大阪府内の病院で死去した。81歳だった。
Jリーグの前身である日本サッカーリーグではヤンマーのエースとして20年間プレー。251試合出場し、通算202得点、通算79アシストはともに歴代1位の記録である。
日本代表としては76試合に出場し、男子で歴代最多の75得点。サッカーを少しでも経験したことがある人ならば、1試合1点のペースがどれだけ難しいことかはわかるはずだ。1968年のメキシコ五輪では、日本人初となる得点王に輝いた。
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そんな釜本氏が初めてサッカーボールに触れたのは、京都・太泰小5年の体育の授業だったという。その後、蜂ケ岡中に進学すると、抜群の運動センスを持った釜本氏を勧誘しようと、野球部とサッカー部が争奪戦を演じた。Jリーグ創立を記念して発行した本誌特別号で、釜本氏は当時を次のように語っていた。
「サッカーは当時マイナースポーツやったし、やろうとする人間もそうおったわけやない。迷ったけど、『サッカーやってると外国に行けるぞ。オリンピックにも出られるぞ!』って先生に言われて、することにしたんです」
思えば先生の助言がなければ、日本サッカー史に燦然と輝くオリンピック銅メダルはなかっただろうし、現在の繁栄ももっと先のこととなっていたのではないか。
蜂ケ岡中学入学後に、小柄だった体は急成長。同時にサッカーの実力もめきめきとつき、右足の豪快なシュートはいつしか知られる存在となった。
「中学、高校にしても3年間しかそこにおらんでしょ。チームが勝つか負けるかなんて関係ない、そんなもん。それより自分のサッカーのスタイルをどう高めていくか。22~23歳になったとき、どれだけのサッカーができるか。その目標を設定するステップ期間なんです。勝利主義もエエけど、そうしないと世界に通用する選手はなかなか出てきません」
生前、釜本氏に「1対0で勝っても自分が無得点なら不機嫌だった」と当時の多くの記者は語っていたが、その真偽を聞いたことがあった。
「本当だよ。僕はストライカーですよ。いくら試合に勝っても自分がノーゴールならうれしいはずがない。むしろ、うれしがってはいけないと思う。だから2対3で負けても、その2点が自分のゴールだったら満足していましたよ」
京都の名門・山城高校に進学すると、国体優勝、全国高校サッカー選手権準優勝など、チームとしても個人としても結果を残した。
ただ、ストライカーとして突出していただけに、なかには「ちょっと痛いとすぐ練習を休むなどさぼり癖がある」と、やっかむ声も多かったという。当時、怪我の痛みをこらえて無理してでも練習するのが美徳とされていた時代だっただけに、なおさらである。
しかし、釜本氏が山城高1年時の主将は、こう弁解していた。
「上を目指していくうえで、その練習が必要かどうか判断しながらやっていた。当時は『要領かましやがって』と思ったけど(笑)、指導する立場になって、彼の主張がわかるようになりました。あの年で、すでに考え方はプロフェッショナルでした」(元・同大サッカー部監督、故・古川勝己氏)
釜本氏も「練習せんとうまい選手になれへんのやから、やってましたよ。見えへんトコで、一日24時間ね(笑)」と語っていた。
山城高卒業後に進学した大学サッカー界の雄・早稲田大学ア式蹴球部では、釜本氏について代々語られていることがある。ア式蹴球部OBが述懐する。
「ウチのOBには初代Jチェアマンである川渕三郎さんや岡田武史元日本代表監督など、日本サッカー界の重鎮となった先輩が数多くいらっしゃいます。ただ、選手としての実績を語り継がれているのは釜本さんです。
練習量の多さは当然ですが、深かったのは『練習はピッチ以外でもできる』ということです。身長179センチと、当時としては大柄だったため、俊敏性を養うために繁華街に出向き、人込みのなかでステップを切る。電車に乗ってもけっして座らずに踵を上げてふくらはぎを鍛える。
誰もいなくなった浴槽では、水の抵抗を利用して何度も何度も両足を振り続け、結果、女性のウエストよりも太いモモができあがった。釜本さんのシュートを受けて指と指の間が避けたり、骨折したGKは数えきれない。釜本さんは、我々後輩の間では “努力の人” として通っています」
ヤンマー、日本代表での活躍は冒頭に記したとおりだ。とくに、代表ではメキシコ五輪の得点王ということもあり、当然のように欧州のサッカーシーンでも注目された。
「当時の西ドイツ、イングランドの強豪チームからの誘いは実際にありました。でも、日本はアマチュアの時代。移籍してプロになれば、ルール上アマ限定の五輪の予選に出られなくなる。五輪予選に釜本がいないことは許されるはずもなく、だからこそ日本協会は欧州への移籍を許しませんでした。
もし、移籍していたら活躍は間違いなかっただけに残念でなりません。後に、“サッカーの王様” ペレは『釜本は日本人に生まれるべきではなかった。そうであれば、活躍の場は世界だったから』と最高の誉め言葉を贈っています」(ベテランのサッカーライター)
1984年、日本リーグ開幕に向けたポスターには、後ろ姿で全裸の釜本氏が登場。もう少しで40歳を迎えようという年齢を感じさせない筋骨隆々とした “不惑の肉体美” だった。
この依頼を釜本氏は断わっていたが、当時は韓国どころか東南アジアの国にも勝てなかった時代。代表を引いたとはいえ、なんとか日本サッカー界を盛り上げるために “ひと肌” 脱いだ格好だ。
釜本氏は勝利至上主義ではなく、まず個人が成長し、その結果が勝利につながるという考え方を貫いた。その信念がJリーグを誕生させ、「個」で勝負すべく多くの日本人選手が海外へ飛び立つ時代へと発展させたことは間違いない。