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黒田博樹、丸佳浩…カープ新人発掘48年“伝説のスカウト”が極秘メモ初公開! 明かされた「プロで大成するタイプ」

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記事投稿日:2025.10.18 06:00 最終更新日:2025.10.18 06:00
出典元: SmartFLASH
著者: 『FLASH』編集部
黒田博樹、丸佳浩…カープ新人発掘48年“伝説のスカウト”が極秘メモ初公開! 明かされた「プロで大成するタイプ」

1997年、専修大から入団した黒田博樹(右)

 

 金本知憲、江藤智(あきら)、黒田博樹、丸佳浩……広島東洋カープを支えてきた選手たちのスカウトに、48年、尽力してきたのが、苑田聡彦氏だ。その実績から、球界の “伝説のスカウト” と呼ばれている。

 

 福岡県立三池工高のスラッガーとして注目された苑田氏が、選手として広島に入団したのは1964年のことだった。

 

「ウチは食べ盛りがそろった男4人、女2人の6人きょうだいだったので、家計を助ける意味でも、高校を出たらプロに行ってお金を稼ぎたかった。それで、原貢監督(元巨人・原辰徳監督の父)に『(地元の)西鉄ライオンズのテストを受けたい』と相談したら、『お前目当ての球団が9つ来とるぞ』と。うれしいというより、驚きましたね」

 

 となると、ふだんの練習でも、いつもグラウンドに顔を出す人物のことが気になり始めた。

 

「いつもスーツ姿にハンチング帽をかぶって、かっこいい人がいて。あとでわかったんですが、それが広島の久野久夫(ひさの・ひさお)スカウトでした。久野さんとは、何か話をするわけでもなく、目があっても会釈する程度。でも、気になって仕方がなく、広島にお世話になることに決めました。条件は9球団でいちばん低かったけど、そんなことはまったく気になりませんでしたね(笑)」

 

 入団後、最初は外野手としてプレーし、4年めの1967年には109試合に出場するなど、レギュラーの座をつかみかけた。その後は内野手に転向したが、1967年シーズンを上回る出場機会を得ることはできなかった。

 

 しかし、現役生活が14年に及んだことを考えれば、貴重な戦力であったことは間違いない。1975年、球団初のリーグ制覇にも、スーパーサブとして貢献した。そして、1977年に現役を引退すると、そのままスカウトに転向し、現在に至る。

 

「引退後はコーチ、それも育成の部分をやりたかったんです。でも、球団からはスカウトをと。僕は久野スカウトのおかげでカープに入った。引退後の仕事がスカウトというのは、何か縁を感じますね。久野さんは、スカウトの原点になる人でしたから」

 

 生まれは福岡で、現役時代は広島。それがスカウト1年め、拠点を東京に作り、関東、東北、北海道の3地区を1人で担当した。苑田氏には、スカウトマン1年めから大事にしていたことがあった。

 

「視察は、アップのときから行って、監督にあいさつしてすべての練習を見ます。最後もベースランニングまでね。そうすると『あのスカウトは熱心だ』といった印象を持ってくれるわけです。

 

 ただ、このやり方だと1日1校しか行けない。なにしろ、担当は1人で3地区でしたから。そこで、学校に練習開始時間を聞き出し、行っても監督にはあいさつしない。すれば最後まで練習を見なければいけませんから(笑)。

 

 見る場所も、バックネット裏やベンチからではなく、監督の死角になるようなところで見る。そこに球拾いの子が来たら、『ご苦労さん。ところで、あの体の大きい子はなんていうの。よく打つね』と聞くわけです。『〇〇先輩です。飛距離もすごいですよ』と。そういったことで情報を得るんです。これだと1日に2校回ることも可能でした」

 

 苑田氏は、48年のスカウト人生で得た経験や知識を、文字として残してきた。それはいま、後輩のスカウトマンたちの手元にあるという。

 

「じつは高校時代から野球日記をつけ始め、いまも続けているんです。だからメモに残すことは苦ではありませんでした」

 

『スカウトとして大切なポイントと注意』と題したメモは、選手視察の際の服装、言葉遣いに始まり、野球の技術、球界関係者やメディアへの対応、そして健康面と多岐にわたっている。

 

 なかでも本誌が注目したのは『ユニホームの着こなし、ランニング、キャッチボールからもセンスの一端は伺える』という項目だった。

 

「これは黒田のときに感じたことなんです。専修大学へ視察に行ったとき、じつはほかの選手目当てでした。でも、寮から練習場に向かう後姿を見たとき、大げさではなく、後光が射していた。なんとも言えないオーラというか。歩き方から立ち居振る舞いにしても、かっこいいなあと。

 

 監督に聞いたら『ほかのスカウトのみなさんも知らないと思いますよ。上宮高でも4番手くらいだった』と。

 

 で、ウチの関西担当に聞いたら『黒田? 知りません』とのことでした。でも、僕は頭のなかから彼のことが離れない。そうこうするうちに、どんどんよくなっていった。無名でも、こういう選手を見つけ出すことこそ、スカウトの醍醐味だと思います」

 

 では、プロで大成するタイプとは。

 

「投手でも打者でも、やられたときに『コノヤロ~』といった表情を浮かべる選手。たとえば投手なら、打たれたのと同じ球種、コースで再度、勝負する。専修大のときの黒田がまさにそうでした。

 

 いちばんダメなのは、『××だったから』と言い訳したり、人のせいにしたりする子。これは最低で、どんなにすごいスラッガーでも、カープでは獲らないと決めていました」

 

 広島はここ最近、3年連続、12球団最速で1位指名を公言している。2025年は創価大の立石正広内野手だ。

 

「僕が最初に言おうと決めました。早めに公言するのは誠意だと思うんです。2024年に1位指名し、楽天に入団した宗山塁くんの場合など、彼が明治大2年のとき、『2年後は宗山くんでいきます。公表しましょう』と社長に進言したほど。

 

 惚れた要因は守備です。多くの選手が逆シングルで捕るようなゴロも、彼は正面で捕ってしまう。それだけ動きがスムーズで速い。彼は難しい守備を簡単に見せてしまう。それがいちばん難しいことです。もし獲れれば、ショートは向こう10年、大丈夫だと思いました。

 

 金本も東北福祉大3年のころから追いかけていました。オーナーに連絡し、『すばらしい選手がいます。高校も地元(広島)の広陵高です』と言ったところ、『お前にまかせた!』とのお墨つきが出たので、東北福祉大の野球部監督に『ドラフトでは必ず行きますから』と話を進めました。

 

 江藤に関しては思い出深くてね。関東高の校長先生に『絶対、指名しますから』と言ったんですが、半信半疑で。というのも過去に、ある球団が同校の生徒を『指名します』と言っておきながら、しなかったそうなんです。

 

 そう言ってもらった生徒は、進学も就職活動もしなかった。当時、ドラフト会議は11月と遅く、そこからはどうしようもなくなってしまったわけです。

 

 そこで、校長先生を安心させる意味でも『順位はわかりませんが、必ず指名します』と書面にし、印鑑を押して渡したわけです。公約どおり5位でしたが指名でき、あいさつに行くと『ありがとうございました』と書面を返してくれた。これは江藤やご両親にも言っていません。

 

 丸は、甲子園には千葉経済大附属高のエースとして出場していますから、投手として注目されることが多かった。でも、僕は打者として大いに買っていた。

 

 視察に行っても監督から『今日は投げませんよ』と言われるんだけど、『いいんです、打つほうを見に来ましたから』といった会話が何度もありました。他球団は投打ともにあまりマークしていなかったので、学校関係者には『打者として絶対、指名します』と告げました。

 

 いままであげた選手に共通していたことは、よう練習したことですね。スカウトをしていて、こういう選手に出会うことも醍醐味でした」

 

 そうした選手たちとは逆の選手もいたという。「苑田メモ」の教訓のひとつに「腐ったリンゴは早めに箱から出す勇気を忘れるな」というものがある。

 

「今年で現役が終わりかどうかは、本人がいちばんわかっている。そうなると、自棄になって若い子を連れ回す。門限を破っても来年はないから、自分には関係ない、と開き直っている。すると、若手が怒られる。悪い方向に引っ張るんです。こういう選手はどのチームにもいるようですね」

 

 苑田氏は、2025年2月で80歳となった。選手で14年、スカウトで48年の野球人生は、2026年2月で幕を閉じる。2024年あたりからドラフトの最終会議にも出席せず、現在は顧問という肩書になった。

 

「今年のドラフト会議? いつもなら真新しい下着に着替え、自宅の神棚にお祈りしてから会場に向かいます。でも、今年は静かにテレビで拝見させてもらいます」

 

 現場に出向くことはなくなったが、伝説のスカウトの意思は、文字となって後輩たちに受け継がれている。

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