
高代延博さん(写真・時事通信 ©NPB/BBM 2013)
昭和の名選手であり、名コーチでもあった人物がまたひとり、天国へと旅立った。
12月9日、高代延博(たかしろ・のぶひろ)さんが、食道胃接合部がんで死去した。71歳だった。
奈良県出身の高代さんは、奈良・智弁学園高、法大、東芝と野球の名門を経て、1979年にドラフト1位で日本ハムに入団。1年めからしぶといバッティングと守備で頭角を現し、レギュラーを獲得した。さらに、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)を受賞した。
1989年、11年間のプロ野球人生に幕を下ろし、1990年からは広島一軍守備・走塁コーチに就任。三塁ベースコーチも兼任した。
「現役時代も“いぶし銀”のプレーヤーとして注目されていましたが、より輝きを見せたのがコーチに就任してから。引退して即、コーチに就任したことからも、現役時代からしっかりとした野球理論を持っていたことがうかがえます。広島に始まったコーチ人生は、20年以上になりますが、特筆すべきは名監督の下で働いてきたことです。
1998年の星野仙一さん、2003年の落合博満さんと、ともに当時、中日の監督だった2人から『ぜひうちにコーチとして来てほしい』と誘われたことは、球界では有名な話です」(スポーツ紙デスク)
本誌も生前の野村克也さんから、こんな話を聞いたことがある。
「高代はグラウンドの隅々まで目が届く。だからこそ、日本一のサードコーチャーなんだ」
また、活躍の場はプロ野球だけではなかった。2009年、第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では日本代表の内野手部・走塁コーチに就任し、当然、三塁ベースコーチの場には、高代が立った。
「高代さんにはもうひとつ特技があって、それはノックでした。ボールを受け取ってからトスをし、打ち込むまでの動きが流れるようで、『美しい』という言葉がピッタリと当てはまりました。
2009年のWBCに向けた合宿は宮崎でおこなわれたんですが、イチロー含め前回、2人だった日本人メジャーリーガーが、松坂大輔、岩村明憲、福留孝介、城島健司と5人が参加したことで、球場は連日、超満員になりました。その際、彼らの一挙手一投足に歓声が送られることは当たり前でしたが、高代さんのノックにも歓声が。美しすぎる動きに、ため息が漏れることもあったくらいです。私も長年、プロ野球を取材してきましたが、ノックで“金が取れるコーチ”は高代さんだけでした」(前出・スポーツ紙デスク)
高代さんは2025年に入っても、病気と闘いながら、大阪経済大学硬式野球部の監督を務めていたという。
「ただ、9月に入って病状が悪化し、入院していたと聞いています。病室では大経大の教え子たちの活躍とともに、2026年3月のWBCも楽しみにしていたようです」(スポーツ紙記者)
プロアマ問わず、つねにグラウンドに立ち続けた野球人生だった。
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