スポーツ
日大アメフト部「選手の反乱」は48年前にも起きていた
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2018.06.05 06:00 最終更新日:2018.06.05 06:00
5月6日の「反則タックル事件」に端を発した、日本大学アメリカンフットボール部「フェニックス」(以下、フェニックス)の騒動。
学生フットボール界屈指の強豪と知られているこのチームだが、その礎を築いたのが「フットボールの鬼」といわれた故・篠竹幹夫氏である。そして、この篠竹氏の足跡をたどると、現在と過去の “思わぬ一致” があった――。
篠竹氏は1959年にフェニックスの監督に就任し、2003年に監督を退いた。ちなみに、この後を継いで監督に就任したのが、関東学生連盟から「除名」処分となった内田正人前監督(62)だ。
篠竹氏が監督を務めた44年間、独特の指導法と革新的な戦術で、フェニックスは17回の学生日本一を成し遂げた。
1989年に発行された、日本大学の歴史を綴ったノンフィクション小説『小説 日本大学』(大下英治著)。このなかにも篠竹氏の半生について記されている。
《日大―明大戦には、昭和四十五年いらい、深い因縁があった。その年、関東大学リーグ戦で日大は、早稲田、慶応、明治、法政、立教、東大からなるリーグ『東京シックス』から、締め出しをくらった。》(「小説 日本大学」より原文ママ)
奇しくも、いまフェニックスは関東学生連盟から反則タックル事件で出場停止処分を受けている。そして、フェニックスが所属する関東学生連盟の最上位リーグ「TOP8」には、東大を除く先述の「東京シックス」の面々が含まれているのだ。
昭和45年、つまりは1970年にもフェニックスは学生フットボール界で孤立していた。当時はあまりにもフェニックスが強すぎたからで、今回はあまりにも凶暴過ぎたからなのだが……。
ちなみに、『小説 日本大学』には、大学闘争後のフェニックスについての記載もある。
《篠竹のプレッシャーをかけるハードな練習についていけない現役、OB連から、日大闘争の余韻を駆って、篠竹ボイコットの機運が、一気に出たのであった。
「あいつのやるようなスパルタの時代は、終わった!」
「あいつを、辞めさせろ!」』
そのような暴言が、直接篠竹の耳にまで聞こえてくるほどであった。篠竹はまったくの孤立無援となった。現役フットボール部員、OBらほとんど全員が、篠竹ボイコットに走った。》
この闘争は、篠竹氏の意地が勝り収束したと記されている。しかし、まさか48年後に「あいつのやるようなスパルタの時代は終わった!」と、またもフェニックス内で叫ばれる日が来るとは、篠竹氏も想像すらしなかっただろう。