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引退「川口能活」両親が本誌に語っていたサッカー少年時代

スポーツ 投稿日:2018.11.15 11:00FLASH編集部

引退「川口能活」両親が本誌に語っていたサッカー少年時代

 

 11月14日、J3のSC相模原に所属している元日本代表GKの川口能活が、引退会見を開いた。

 

「選手としてではなくて、違った形で貢献したいという思いが強くなった」

 

 

 ここ数年、引退するかしないかで揺れ、2018年のロシアワーツドカップ日本代表の戦いを見て、引退を決意したという。

 

 会見冒頭、川口は「サッカー選手として必要な丈夫な体を授けてくれた両親。サッカーに出会わせてくれた兄」への感謝を述べた。本誌はかつて、その両親に取材している。

 

 川口がサッカーに目覚めたのは小3のときだった。小4で初めて試合を無断欠場し、監督から「明日から来るな」と叱責されたのが、最初の挫折だった。

 

「能活は1週間、校庭の片隅に隠れて、泣きながら練習を見てました」と母のひろ子さん。
 GK専念を決意した小5の夏、川口は念願のグラブを手に入れる。当時1万2000円もしたのだが、父のボーナスが出るのを待って、親子3人で買いに行ったという。

 

「能活が小学5年のときに、家が火事で全焼したんです。そのときはさすがに私たちも頭が真っ白になってしまったんですが、自分が泣いたらもっと心配かけると思ったんでしょうね。下の公園で一人で大泣きしてたって、近所の人に教えてもらって切なくなりました」(ひろ子さん)

 

 昔からけっして親の前では涙を見せない子供だったという。
 父の政昭さんはこう話していた。

 

「当時、やっと買ったビデオで『負け試合を見ろ』って言ったんですよ。ビデオで見れば点を入れられる前の動きもわかるでしょ。でも悔しいんでしょう、絶対見るもんかって(笑)。

 

 でもしばらくしてから、真剣に見てました。ただ、負けていちばん悔しいのは本人ですから、私たちは何も言いませんでしたよ。勝ったときは『ナイスセーブだったな』なんて話しましたけど」

 

 川口が静岡の名門・東海大一中に進学したいと言ったとき、家族会議が開かれた。そのとき兄が、「能活が本気でサッカーをやりたいんだったら、やらしてやろうよ。ボクは公立高校へ行くから」と言った。この兄の一言で、川口の進路が決まった。

 

 川口が清水商に進学してからは寮生活になり、別々の生活になったが、両親は陰ながら支えてくれた。

 

「私はパートの前に車で清水まで行って、能活の布団を干すんです。それでパートが終わったらまた行って、布団を取り込んでシーツも取り替えてあげる。そうすると何も言わなくても『今日は来てくれた』ってわかるみたいで(笑)。
 あとは食事が心配で、冷蔵庫にヨーグルトなんかを入れてきました」(ひろ子さん)

 

 運転手の仕事をしていた政昭さんも、中学のときから遠征に行くときはバスの運転を買って出たという。

 

 1996年、アトランタ五輪でブラジルに勝利した「マイアミの奇跡」では、28本のシュートを打たれるも失点0に抑えた川口。
 2004年のアジアカップ・ヨルダン戦のPKでは、入れられたら敗退が決まる絶対絶命な状況で、シュートを2回止めるなど、神がかった活躍もした。

 

 日本代表として国際Aマッチ出場数116試合は、歴代3位。ワールドカップ4大会連続で選出されるなど、日本を代表する守護神となった川口。その活躍を支えたのは、一番のサポーターだった家族だったのだ。

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