おれも図々しかったんだなあ、と中澤さんは腕組みして唸る。
「よく見に行かせてもらったよ。千秋楽パーティにも潜り込んだりしてさ」
友達ということでの特別扱い。しかし、ある時の千秋楽パーティで、はたと気づいた。
「今は京王プラザホテルだけど、当時は部屋で千秋楽パーティをやっていたんだよね。で、いつものように入って見ていると、なにやら入り口でお金を払っている人がいるんだよ。
あれはなんだと聞いたら、後援会というものがあって、一口5000円からお金を出すもんだと言うじゃないか。そんなこと全然知らなかったんだよ。『ああこれはいけない、ちゃんと払うものは払わなきゃ』と反省したんだ」
それから中澤さんは正式に後援会に入り、支援を行うようになっていく。といっても、それまでの付き合いと、何かが本質的に変わることはない。
「北の富士も、まだペーペーだった。みんなで寝てるとね、綺麗な新宿のママさんが、お小遣いを持ってきて北の富士の枕にそっと入れていくそうでね。
ああ、おれが見たわけじゃなくて義ノ花か誰かに聞いたんだな、仲が良かったから。義ノ花はお得意さんでもあったんだ。うちのクリームなんかを使ってくれてた」
父の会社に入社し、役員として奔走しつつ、後援も続けた。
「牛乳をたまに届けたりもしたね。なんでも稽古終わってすぐに飲むと吸収がいいらしい。そんなこと知らなくて『ああ、そうなんですか』としか言えなかったな。
就職先の相談にも乗ったよ。やはり引退後の働き先には困るからね。一時期、うちに元お相撲さんが五人くらいいたんだ。ビンで届いた牛乳をトラックから冷蔵庫に入れてもらったり、力仕事があったからね。もう昔の話だけれど」
中澤さんは出羽海部屋と人生を一緒に歩いてきた。今の親方のことは、子供の頃から知っている。18歳から始まった出羽海部屋との付き合いは、62年目になる。
「初めは遊び友達だったのがね。だんだん若い者がどんなふうに育っていくのか、見ていて可愛くなってね。呼び名も変わっていくんだよ。
初めのうちは『ナントカちゃん、いるかい』なんて呼んでたのが、偉くなってくると『よっ、大将いる?』なんてふうに。ナントカちゃんなんて呼べなくなる、いや呼べなくなってくれないとね、困るね」
取材・文/二宮敦人
にのみやあつと
1985年生まれ。小説作品に『最後の医者は雨上がりの空に君を願う』。初のノンフィクション作品『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』が12万部を超えるベストセラーに
(週刊FLASH 2018年11月27日号)