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金子弌大で話題「プロ野球改名史」王監督が覚えられず変更も
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2018.12.10 20:50 最終更新日:2018.12.10 20:50
プロ野球の日本ハムが、12月10日にオリックスから金子千尋投手(35)の獲得を発表した。しかし、意外なことが話題になっている。それは、発表された来年からの登録名が「金子弌大」(かねこ・ちひろ)になっていたことだ。
ネット上では、
「金子千尋→ 金子弌大 もはや誰だよ」
「金子弌大には金子千尋感があまり感じられない」
「金子弌大 かねこちひろ ユーザー辞書登録しちゃったじゃないか」
など、動揺の声が上がっている。
登録名といえば、今年引退した松井稼頭央(本名:松井和夫)が、母から「運が開けるように」「中央で先頭に立ち、活躍する」という意味を込めた「稼頭央」という名前を提案され、登録名にしている。いわば、ゲン担ぎの一種として浸透している形だ。
ほかにも、1998年から2000年の間に広島カープの監督を務めた達川光男は、「トップにふさわしいから」という理由で「達川晃豊」(たつかわ・みつお)に改名。
現巨人コーチの片岡治大(本名:片岡保幸)も「やすゆき」の読みはそのままに、プロ入り時に「アマ時代は怪我に悩まされたから」を理由に「片岡易之」で登録。ふたたび大怪我を負った2012年から、現在の「治大」に変更した。
登録名変更の先駆けとなったのは、誰もが知るイチロー(本名:鈴木一朗)だった。
1994年の開幕時、当時オリックスの仰木彬監督が2選手の登録名をパンチ(パンチ佐藤、本名:佐藤和弘)とイチローに変更。すると、この年にイチローは、当時プロ野球新記録となる210安打を放って、首位打者をはじめとする10個のタイトル・表彰を獲得する。
これに他球団が便乗して「改名ブーム」が起こった。
1994年、ロッテにドラフト1位指名された大村三郎は入団早々に「サブロー」へ改名。
1996年には中日に所属していた3人の「山田」姓の選手が、それぞれキク(本名:山田喜久夫、1995年に改名)、ヒロ(本名:山田洋、横浜時代の2001年には山田博士へ改名)、広二(本名:山田広二)に改名。しかし、大活躍はなく、3選手ともその年のうちに本名に戻している。
同じ年、ダイエーもミツグ(本名:斉藤貢)、カズミ(本名:斉藤和巳)と「さいとう」姓の2選手を改名。
じつは、このときダイエーには「斉藤学」という選手もおり、当時の王貞治監督が「学」と「貢」を言い間違えたための改名だった。とばっちりを受けて改名した「カズミ」だが、本名に戻した2003年に沢村賞に輝くなど、「さいとう」3選手のなかでは一番の出世頭になった。
しかし、王監督はその後も、当時在籍していた「吉田豊」と「吉田修」を間違えてリリーフ登板させてしまうという失態を演じてしまう。
そのためか、王監督時代のダイエーおよびソフトバンクでは、2000年に総司(本名:田中総司)、2001年にアキラ(本名:松本輝、2002年から輝)、誠(本名:佐藤誠)、2003年に瑞稀(本名:田中瑞季)、2005年に領健(本名:加藤領健)と改名する若手選手が続出した。
外国人選手の改名で一工夫したのは、オリックス・仰木監督だった。
1995年に入団したダグ・ジェニングスを「D・J」の名で登録。すると、D・Jはその年の優勝に貢献する活躍を見せた。
それに便乗したのは近鉄。1996年に入団したクリス・ドネルスの登録名を「C・D」に。その年、20ホームランを放ち、まずまずの活躍を見せたが、1年で帰国。しかし、そのC・Dが不振のD・Jに代わる選手として、1997年途中にオリックスへ入団する。だが、登録名はまさかの「ドネルス」。
そのまま本名でいくかと思われたのもつかの間、1998年の開幕からふたたび「C・D」に改名。しかし、不振にあえいだせいか、1999年には再度「ドネルス」に改名。しかし、その年は一軍に出場することすらできず帰国となった。
1シーズン140試合以上戦うプロ野球選手にとって、改名のご利益というのも一つの拠り所なのであろう。