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引退「稀勢の里」小中学校ではエースで4番の野球少年だった

スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2019.01.16 16:24 最終更新日:2019.01.16 16:30

引退「稀勢の里」小中学校ではエースで4番の野球少年だった

 

 横綱・稀勢の里引退を決めた。「土俵人生に一片の悔いもない」と引退会見で語っている。

 

 先場所は初日から4連敗(不戦敗を除く)で、今場所は初日から3連敗。いずれも見せ場がなく、防戦一方だった。今後は年寄「荒磯」を襲名し、田子ノ浦部屋で後進の指導にあたるという。

 

 

 稀勢の里は19年ぶりに誕生した日本出身の横綱で、相撲人気を呼び戻した功労者なのは間違いない。本誌はかつて、稀勢の里の子供時代を取材している。

 

「寛くん(稀勢の里の本名は萩原寛)は小学校から中学卒業まで野球をしており、小学校ではキャッチャー。中学では体重100キロ、身長180センチ近くあってエースで4番だった」(中学の同級生の父)

 

 稀勢の里は野球でも非凡な才能を発揮。高校野球の名門・常総学院から特待生で来ないかという誘いも受けたほどだった。

 

 しかし、野球の道を早々にあきらめ、中学卒業後、鳴戸部屋に入門。そこにはある思いがあったのではと、父の貞彦さんは語っていた。

 

「中卒で入門したのは、私が事業に失敗し、生活が厳しかったという理由が大きいと思う。常総学院からの誘いも、スポーツでやっていくなら相撲のほうがなんとかなると考えたのでは」

 

 家族に楽をさせてあげたいと思ったのか、稀勢の里の決意は固かった。プロ野球なら最短で高校卒業まで待たなければならないからだ。

 

「相撲部屋への入門は中学2年生の終わり頃には決めていました。反対はありましたけど、迷わなかったですね」と本誌に語っている。

 

 学校の先生の反対も押し切り、中学卒業後すぐに鳴戸部屋に入門。入門後は「稽古はきついが、やめようと思ったことはない。ただの中卒のデブだから結果を出さないと」と語っていた。

 

 結果はすぐに出て、貴乃花に次ぐ史上2番目の17歳9カ月で十両昇進を果たすなど、番付を一気に駆け上がり、横綱になった。

 

 そんな稀勢の里は、プロレス好きで有名。普段は寡黙だが仲のいいカメラマンがレンズを向ければ、武藤敬司の「プロレスLOVE」ポーズを披露するほど。

 

 さらに父は元プロボクサー。稀勢の里が相撲がダメだった場合、ヘビー級のプロボクサーに育てるためアメリカに留学さようと考えたこともある。

 

 運動神経が抜群の稀勢の里。セカンドキャリアは格闘家やプロレスラーが向いているかも。

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