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いま明かされる「振り子打法秘話」恩人たちが語るイチロー
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2019.03.20 13:42 最終更新日:2019.03.20 13:42
3月20日、7年ぶりに日本で開幕を迎えたイチロー(45)。「振り子打法」は、イチローのあまりにも有名な代名詞だ。1992年から二人三脚で習得に取り組んだのは、当時オリックス二軍打撃コーチだった、河村健一郎氏(71)である。
「彼はもともと軽く足を上げて打っていましたが、当時は体重68kgと体が細く、普通のタイミングでとらえると球に負けてしまう。そこで、『早くタイミングを取って、球を迎え撃つ感覚でやろう』と生まれたのが、振り子打法でした」
すると、きれいなライナーが多く見られるようになった。
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「ただ、始めたころは、引っ張り専門。で、本人に『広角に打つことを意識してくれ。俺はお前の2年先を見ている』と常々言っていました」
イチローは1年めから、二軍で首位打者を獲得。「オリックスにいい選手がいる」と評判になったが、なかなか一軍でプレーする機会はなかった。
「それは、当時の土井正三監督ら首脳陣が、彼の打ち方を気に入らなかったから。それでも彼は、腐らず練習していましたよ。土井監督からは、何度も『変えろ!』と言われました。
でも、『その必要はありません』と私は拒否したし、イチローもまったく変えるつもりはなかった。なぜならタイミングが合っていたから。私は当時から、『イチローは将来、必ず名球会に入る』と球団に伝えていました」
転機は1994年だった。仰木彬氏に監督が代わると、自身も巧打で鳴らした新井宏昌氏が打撃コーチに就任したのだ。新井氏が当時を振り返る。
「人とは違った打ち方をしていたけど、打球は素晴らしかった。ただ、試合で投手が緩急を使ってきたとき、弱さを見せるかもしれないとは思いました。
そこでステップし終わった格好から、しっかり振れるようにするドリルを取り入れた。彼はこれを5年間続けました。安定した成績を残す、きっかけになったはず」
数々の記録を打ち立てたイチローだったが、「1998年にスランプに陥ったことがあった」と新井氏は打ち明ける。
「メジャーリーガーのケン・グリフィーJr.のように、背筋を伸ばした打法を取り入れたときでした。彼はメジャー志向が強かったし、憧れていた選手のフォームを取り入れたかったと思う。
でもイチローはバットコントロール、ハンドリングなどの柔らかさが持ち味。あの打法ではそれが消えてしまう。当然成績も上がってこない。そのときは苦労しましたね。
で、仰木監督からは『なんとかしろ。メシでも食って話してこい』と。その場で『持ち味が消えてしまう』と諭しました。でも、そこはイチロー。戻しますとは言わず、『(戻すことを)試してみます』ですからね(笑)」
すぐにではなかったが、徐々にフォームを戻し、シーズンが終わってみれば。日本球界初となる5年連続の首位打者を獲得し、最終的には7年連続まで記録を伸ばした。
210安打を記録した1994年、イチローの隣にはつねに、打撃投手だった奥村幸治氏(46)の姿があった。
「この年、開幕からずっと、僕が彼の打撃投手を務めていました。ですが夏ごろ、打撃コーチが『たまにはほかの投手がいいのでは』と、僕を代えたんです。
すると練習前にイチローがマネージャーに『僕は毎日、奥村さんのボールでヒットが打てている。この形を変えられるということは、ヒットを打たなくてもいいということなんですかね』と話したんです。それを聞いた打撃コーチが慌てて、『残り5分でもいいから投げてくれる?』と言ってきました(笑)。
彼はルーティンを変えられることを嫌うんです。会うとつねに言われることがあって、『ちっちゃいね』。次に『奥村さん、(日に焼けて)黒いね』と。必ずこの順番で言われる。これもたぶん、ルーティンなんだと思います(笑)」
冒頭の写真は、趣味が「盆栽と金魚」と噂されていたイチローに、1994年当時に本誌が直撃したもの。ほかの趣味では、MLBやMBAのカードも集めていた。これら、趣味という「ルーティン」も、ひょっとしたらまだ、続いているのかも。
(週刊FLASH 2019年3月26日号)