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国民栄誉賞を辞退したイチロー、頑固でちょっとHな半生記
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2019.04.06 06:00 最終更新日:2019.04.06 06:00
4月5日、イチローが国民栄誉賞を辞退したことが報じられた。政府からの打診に対し、「人生の幕を下ろしたときにいただけるよう励みます」と返答があり、授与は見送られた。
イチローが国民栄誉賞を辞退するのはこれで3回目だ。最初の打診は2001年で、オリックスから大リーグのマリナーズに移籍し、リーグ最優秀選手や新人王、盗塁王に輝いた時期だった。 当時のイチローは「まだ若いので、できれば辞退したい」と政府に伝えている。
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2回目はシーズン最多安打のメジャー記録を塗り替えた2004年。このときは「野球生活を終え、本当にやり切ったときに、もしいただけるならば大変ありがたい」とこれも固辞した。
記録ずくめのイチローだが、ここで本誌の記者が集めたイチローの頑固エピソードを振り返っておこう。
イチローは、1973年10月22日、体重4280グラムで誕生した。「欲しいものを買ってもらえないと、大の字に寝るんです。ワガママで頑固でした」と、母・淑江(よしえ)さんがかつて本誌に語っている。
小4から中3までの6年間、元日と台風の日以外休まずに父・宣之(のぶゆき)さんと通ったのが「空港バッティングセンター」。1日平均200球、毎月5~6万円分も打ち込んでいた。
少年野球から木のバットを使用していたのも有名な話。手のマメが潰れた血でグリップが赤く染まっていたので、イチローのバットだけはすぐにわかったという。
小6の卒業文集では、「夢は中日のドラフト1位で、契約金は1億円以上」と書いており、子供のころから大のドラ党だった。ドラフトで中日から指名がなかったときはショックを隠せなかった。
中学時は全国でも評判の速球投手だった。愛工大名電高1年のとき、投手でのデビュー戦で松商学園にメッタ打ちされて降板。「もう野球をやめたい」と初めて泣き言を吐いている。
高校3年間の通算成績は153試合で打率.493、19本塁打、215打点、133盗塁。高校2年の夏から3年夏の公式戦は58試合で打率.536の驚異的なアベレージを残し、「センター前ヒットならいつでも打てる」と豪語。名将・中村豪監督に「あいつは宇宙人や」と舌を巻かせた。
イチローは、まさに頑固一徹な野球人生を送ってきた。
そんなイチローだが、実は中学でオール5をとるなど、成績は常に5番以内。
マジメだが、一方で、小学校高学年で掃除時間にホウキで女子にイタズラして「スカートめくりの一朗」と呼ばれていたというエピソードも。
ちなみにイチローと親交のあった清原和博が、2009年に本誌の取材にこう答えている。
「初めて一緒に飲みに行き、1軒目が終わると『今日は全部俺に任せてください。この後、普通のクラブがいいですか? SMクラブがいいですか?』って。オモロイこと言う奴やなと思ったよ。ちょっとスケベな世界一のバッターを目指してほしい」
イチローのそうしたユニークな一面が、愛され続けた理由なのは間違いない。3月21日の引退会見で「監督は絶対無理。人望がないから」と語っていたが、仲間は誰もが「いいヤツ」だと思っていたからこそ、国民栄誉賞に3度もノミネートされたのだ。