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大谷翔平、父に教えられた野球の基本「心技体」をメジャーでも

スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2019.06.14 11:00 最終更新日:2019.06.14 11:00

大谷翔平、父に教えられた野球の基本「心技体」をメジャーでも

リトルリーグ全国大会で旗手を務める

 

 大谷翔平は、小学3年のとき、岩手県の水沢リトルリーグで本格的に野球を始めた。練習グラウンドのライト側フェンスの外には川が流れていた。

 

 当時のチームメイトが証言する。

 

「硬式ボールは一度水に濡れると使い物にならなくなってしまうんです。川までの距離は約70m。普通、小学生は飛ばせません。ところが翔平は打撃練習でどんどん放り込むので、『引っ張り禁止』を命じられていました」

 

 

 ホームランよりも野球通をうならせる大谷のレフト方向への痛烈な流し打ちは、ここで鍛えられたようだ。

 

 学年が上がるほどに、ピッチャーとしての能力に注目が集まっていった。球速100kmで速いといわれるリトルリーグで、すでに120kmを出していた。

 

 2007年6月3日の東北大会準決勝では、規定の6回18のアウトのうち17を三振で奪うという快投を見せる。

 

 メジャー移籍当初、ピッチャーとして7回を1安打無失点、12奪三振の好投を見せたとき、記者が「人生で一番の投球か?」と聞くと、大谷は笑みを浮かべて、「人生で一番は、小学校くらいのときでした」と答えた。あれはジョークではなく、このときのことだったのかもしれない。

 

 そして大谷はプロ入りした菊池の後を継ぐかのように、入れ違いで花巻東高校に入学した。高校時代の大谷は2年の夏、3年の春と二度甲子園大会に出場したが、ともに万全の状態ではなく、チームも1回戦で敗退した。

 

 恵まれた体はまだ骨の成長過程にあり、そのアンバランスさから、成長痛や肉離れに悩まされていた。

 

 ようやく体調が整った3年の夏には、満を持しての菊池超え(全国優勝)に向けて、県大会からフルスロットル。順調に勝ち上がり、準決勝で「未知のゾーン」へと突入した。

 

 初回から150kmオーバーを連発。伝説の瞬間を予感して記者席ばかりか球場全体がただならぬ雰囲気だった。

 

 そして6回表、二死二、三塁のピンチで相手のエースを迎え、大谷のピッチングはトップギアに入った。初球157km。4球めに159km。もうストレートしか投げるつもりはなかった。その場にいるすべての者の目を釘づけにした千両役者は、6球め、前人未到の160km!

 

 ところが、まさかの決勝戦敗退……。

 

 160km右腕が甲子園出場を逃したというニュースは、どの出場校よりも大きく全国を駆け巡った。

 

 その後のあっと驚くプロでの二刀流の活躍、そのままのスタイルでのメジャー挑戦はご存じのとおりだ。

 

 大谷の父、徹さんはリトルリーグの指導者でもあり、野球をするうえで常に3つのことを心がけるように説いた。

 

(1)大きな声を出して元気よくプレーする。
(2)一生懸命にキャッチボールを練習する。
(3)最後まで全力で走る。

 

 大谷は父に教えられたプレーの基本「心技体」を忠実に守り、河川敷のグラウンドでやっていた野球を、メジャーのスタジアムでもやっているのだ。

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