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ラグビー松島幸太朗、非業の死を遂げた父に誓った涙のトライ
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2019.10.01 06:00 最終更新日:2019.10.01 08:45
世界2位(9月28日の試合時)のアイルランドを撃破し、前回W杯に続きジャイアントキリングを成し遂げたラグビー日本代表。なかでもひときわ存在感を放ったのは、松島幸太朗(26)だ。小柄な体格で大男たちを置き去りにし、縦横無尽にピッチを切り裂いた、その華麗なステップの原点に迫る――。
「あの卓越した身体能力と反骨心は、間違いなく父親から受け継いだものでしょう」(ラグビーライター)
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いまや、世界が認めるトライゲッターに成長した松島は、ジンバブエ人の父、故ロドリック・ンゴロさんと、日本人の母・多恵子さんのひとり息子として、1993年に南アフリカのプレトリアで誕生した。
その後、3歳のころに一家は東京に移り住む。ただ、ジャーナリストとして活動していた父の拠点は南アフリカ。日本での暮らしは、母と2人きりだった。
そのころの夢はプロサッカー選手だったが、練習がきつくなるとバレーボールに逃げたりと、何かを突き詰める性格ではなかった。転機は中学1年の冬。母は息子を1年間、父が住む南アフリカに行かせた。
そこで松島は、南アフリカの国技であるラグビーと出会う。攻めては、大柄な相手にさわらせないで抜く。守っては、大きな相手を小柄な体で倒す。松島は、それまでの性格が嘘のように、ラグビーにのめりこんでいった。
ロドリックさんは、故郷で内戦と貧困、差別を経験。その影響もあってか、南アフリカの「アパルトヘイト(人種隔離政策)」問題に積極的に取り組んでいた。日本で開かれた「差別撤廃世界会議」のシンポジウムに登壇し、熱弁を振るったこともある。厳しくはあったが、松島はそんな父を誇りに思っていた。
帰国後、ラグビーの強豪・桐蔭学園に入学すると、すぐに頭角を現わす。ところが2010年1月、松島が高校2年のとき、ロドリックさんが急死。死因は不明で、死後3日たって自宅アパートで発見された。現地メディアが「ジャーナリスト謎の死」と報道した、志なかばでの “非業の死” だった。
「現地では『汚職を追及していて狙われたのでは』という噂も出たほどでした。権力にも敢然と立ち向かう、本物のジャーナリストだったと聞いています」(海外NGO関係者)
失意のどん底にあった松島を救ったのはラグビーだった。ちょうどそのころ、松島は高校日本代表の合宿に呼ばれていた。のちに多恵子さんは、「息子はラグビーに救われた」と語っている。彼女と親交のあるマスコミ関係者が語る。
「彼女はNGOの研究員として単身南アに渡り、アパルトヘイトなどの人権問題に取り組み、夫とも現地で出会った。自身で道を切り開いてきたので、『息子にもやりたいことを貫いてほしい』と願っている」
母のバックアップもあり、松島は高校卒業と同時に南アフリカへと旅立った。ダーバンを本拠地とするスーパーラグビー(以下SR)の強豪・シャークスの下部組織に入り、3年めには南ア20歳以下代表から声がかかるほどに成長。
2013年に帰国し、サントリーに加入。2015年W杯は、彼の名を世界に知らしめる大会となった。
その後、2015年にワラタス、2016年にはレベルズ(ともに豪州)でプレー。ラグビーライターの吉田宏氏は、「ここが分岐点だった」と振り返る。
「性格はものすごく無口。南アフリカへ留学する際に、『英語は大丈夫?』と尋ねたら『ええ』と。そこで『(英語で)女のコを口説ける?』と聞くと、初めて表情を崩した彼が、忘れられません。
レベルズ在籍時に、広報同席のもとインタビューしたことがあった。当時、レギュラーを外されていたので、そのことを聞くと、『チームに帯同するだけでも勉強になります』と優等生的な答え。
ところが2人だけになると、『自分がレギュラーになれないのが信じられないっすよ』と本音をぶつけてきた。自信を持って自分をさらけ出せるようになったと、人間的成長を感じました」
その後の活躍は、ご存じのとおり。変幻自在なステップワーク。圧倒的なスピード。そのプレースタイルは剛より柔に映る。それにひと役買っているのが「お酢」だという。
「とにかくお酢好き。餃子にはお酢しかかけないし、ラーメンやカレーにもかける。しかも大量にかけるので、どんな料理もほとんどお酢の味しかしない」(担当記者)
9月28日のアイルランド戦でも、松島は “らしさ” を存分に発揮。過去9戦全敗の相手からの、歴史的初勝利に貢献した。史上初のベスト8進出へ、10月5日、サモア戦が大一番となる。
(週刊FLASH 2019年10月15日号)