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初代監督はカズの実父「静岡学園」10年前は廃部の危機だった
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2020.01.23 06:00 最終更新日:2020.01.23 06:00
「本当に嬉しかったです。知良も、たいへん喜んでいましたね。試合前からそうとう気合が入っていたらしく、校歌斉唱ではテレビの前で立ち上がって、一緒に歌っていたと聞いています。
ここに至るまでは、“いろんなこと” があって……よく復活してくれました」
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感慨深げにそう語るのは、横浜FC・三浦知良選手(52)の実父・納谷宣雄氏(78)である。
第98回全国高校サッカー選手権は、カズの母校である「静岡学園」が、前回王者の青森山田を2点差から逆転し、3対2で、24大会ぶり2度めの制覇を果たした。1度めは、鹿児島実業との両校優勝だったため、初めて単独優勝を飾ったことになる。
グアム自主トレからの帰国直後、母校の優勝を伝える新聞を手渡されたカズは、「グアム旅行招待も考える」と、報道陣に笑顔を見せた。
じつは、静岡学園、通称「静学」サッカー部の初代監督が納谷氏なのだ。1967年にサッカー部が創部された静学が、高校選手権に初出場したのは1976年のこと。
当時の高校サッカーは、前線にスピードのある選手を配し、手数をかけずに一気にゴール前に迫る “欧州スタイル” が主流だった。それに対し、静学はショートパスとドリブルを駆使した “ブラジル流” で、大会を席巻した。名勝負の末、強豪・浦和南に敗れたものの、初出場で準優勝の快挙を果たした。
「相手ゴール前で3人に囲まれていても、すべて抜き去ってシュートしたり、自陣ゴール前のピンチで普通ならクリアするところを股抜きしたりするのが、“静学スタイル” だった。
当時の指導者からは、『邪道だ』との声が多く聞かれたのも事実。高校サッカー界では、まさに “異端” でした」(専門誌記者)
その後、静学は、サッカーの強豪校として全国的に認知されるようになる。ところが、いまから約10年前、納谷氏が「いろんなことがあった」と表現する事件が起こる。納谷氏が続ける。
「静学のトップが替わり、“サッカー部を前面に出す” 学校経営から、進学校を目指す方針に転換したんです。一時はサッカー部員への特待生制度もなくなり、部の実力も落ちました。廃部寸前に追い込まれたのです」
静学サッカー部を長年率いた名将・井田勝通総監督(77)にも、契約終了が言い渡された。
“広告塔” の役割を担っていた、部活の終焉。真っ先に思い出されるのが、高校野球におけるPL学園の事例だ。PL学園は進学校を目指す方針から、清原和博と桑田真澄の「KKコンビ」など、数多くのプロ選手を輩出した野球部を、2016年に休部させた。
だが、同じ道を歩みつつあった静学サッカー部は、そこから復活への一歩を踏み出した。
「サッカー部OBと現役の先生方が、『サッカー部をなくしてはならない』と、声を上げて立ち上がってくれたことが大きかった」(納谷氏)
川口修監督(46)も、同部OBのひとり。部員が減るなかでも、井田氏から監督を受け継ぎ、部を守り続けた。すると、想定外の事態が起きた。
「やはり、『静学=サッカー』のイメージが強かったのでしょう。サッカー部の強化をやめたら、受験生が定員割れしたんです。それからは学園側も思い直し、強化を続けていく方針に戻しました」(納谷氏)
現在の静学は中学チームも含め、全コーチを同校OBが務める。異端と批判された “ブラジル流” 指導が、復活への原動力となったという。
「ほかの高校サッカー強豪校とはひと味違う、『勝つためのサッカーはしない。テクニックを向上させ、育てるのが第一』が指導のモットー。それが、自分の子供に『テクニックを学ばせたい』という親御さんから共感を得ているそうです。
一般入試でも、全国からサッカー部志望の生徒が集まるようになった。いま、部員は10年前の倍近く、200名を超えました」(静岡学園OB)
歓喜の復活V。その裏では、OBたちを巻き込んだ、もうひとつの戦いが繰り広げられていたのだ。
写真・JFA/アフロ
(週刊FLASH 2020年2月4日号)