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亡くなった野村克也さん、野球人生にはいつも「ボヤキ」が
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2020.02.11 16:00 最終更新日:2020.02.11 16:00
亡くなった野村克也さんが本格的に野球を始めたのは中学3年生のときだった。
「中学3年の1年間、野球をやらせてくれたら進学をあきらめ働きに行く」との交換条件を親に出した。結局、高校に進学し野球を続けたが、親は大反対。バットを隠したり、野球部の部長に「やめるように説得してくれ」と言いにいったという。
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その後、野球経験ゼロの教師のすすめで、南海にテスト生として合格。鶴岡一人監督の「ああいうモサーッとした選手が、今に大物になるぞ」という鶴の一声で採用決定となった。
ちなみに入団テストをすすめた教師は住職。プロ入りを反対する母親に対し、「プロで失敗したら、責任を取る」と言い、失敗したら寺に住まわせようとしていた。
契約金はゼロで、1年めの年俸は8万4000円。月にすると約7000円。これは当時の民間企業の高卒初任給とほぼ同じ。このうち、寮費が3000円。寮の朝飯はご飯とみそ汁だけだから、卵は別料金。それが月1000円。残り3000円のほとんどを家に仕送りするから、外出もできなかった。
背広を買う金がなかったため、1年間はどこに行くにも学生服。5年めまで母も働いていたという。
そんな苦労人の野村さんは、名言やボヤキで有名だった。味のあるセリフから、野村さんの人柄をしのびたい。
●【ボヤキ1】「夫婦生活は忍耐です。いい加減、自由契約にしてくれ……」
2005年12月、沙知代夫人、息子・克則と3人でトークショーした際、サッチーの「この人たちは私の支配下選手」という発言に続いてこう話した。
●【ボヤキ2】「母親の顔だと思って、思い切り打て」
1997年2月、ヤクルト時代に息子・克則に打撃指導した際の発言。
●【ボヤキ3】「固定観念は悪。先入観は罪」
日本球界には、シュートの投げすぎは肘を壊すという偏見があった。しかしノムさんがシュートの達人・西本聖に聞いたところ「そんなのウソです」との答え。それで川崎憲次郎、吉井理人など多くの投手にシュートを覚えさせ、“再生” に成功した。
●【ボヤキ4】「失敗と書いて、せいちょう(成長)と読む」
「なぜなら、人は失敗することで多くを学ぶからである。失敗は成長を生み出すのだ」。著書『弱者の兵法』(アスペクト)より
●【ボヤキ5】「それは評論家として敗北だ」
「テレビの解説でスクイズした後に『やると思いました』なんて言うヤツがおるけど、先に言えってんだ。結果論は絶対に言っちゃいけない。それは評論家として敗北だ」
●【ボヤキ6】「長嶋は、監督としては失格である」
「長嶋というのは対マスコミということでは天才的である。誰にも真似できない。だが、はっきり言うが、監督としては失格である。選手を育てられないし、管理もできない。采配にいたっては勘とひらめきだけである。悪く言えば、ピエロなのである」。著書『巨人軍論』(角川書店)より
●【ボヤキ7】「仕事なくなったら、運転手させてよ」
2007年9月、ヤクルト時代の教え子、日ハム稲葉篤紀に。「お前はオレが指名してやったんだからな。それを一生忘れるな。今じゃ1億円プレーヤー。仕事なくなったら、運転手させてよ。北海道に行くから」
●【ボヤキ8】「外野手出身に名監督はほとんどいない。外野手は細事、小事に気が回らないからだ」
2016年、本誌のインタビューで。続けて、「高校、大学、プロとエリート街道を歩んできた人が監督になると、控えや二軍の選手まで目が届かない」とも。
最後に同インタビューから、ボヤキならぬ「名言」を。
「野球の中心は投手。0点に抑えれば負けはない。それと、バッテリーを中心とした内野をダイヤモンドっていうでしょ。やっぱり、ダイヤモンドが輝いていなきゃダメだわな」