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野村克也さん、名選手への道を築いた「毎日2時間の素振り」

スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2020.02.11 16:29 最終更新日:2020.02.11 16:29

野村克也さん、名選手への道を築いた「毎日2時間の素振り」

 

 亡くなった野村克也さんは、根性の人だった。
 野村さんは1954年、南海にテスト生として入団。さして期待された選手ではなかった。それが選手としては戦後初、捕手として初の三冠王に輝くなど、一流選手へと成長していった。

 

「ワシはテスト種目で遠投だけ自信がなかった。で、一投めが合格ラインに届かない。気の毒に思った先輩が『前から投げろ!』と。それで5メートル先から投げてようやく合格。インチキしての入団だったんだよ(笑)」

 

 

 一軍定着には時間がかかったが、野村さんはプロ入り後、決めたことがあった。「やめるとき、悔いは残したくなかった」からと、毎日欠かさず取り組んだのが素振りだった。

 

「毎日、最低でも2時間は振ったけど、単純でおもしろくないわな。それに『努力に即効性なし』だから、すぐに効果は表われない。

 

 あるとき、二軍監督に全員が手のひらを見せたんだけど、ほとんどが『なんだこの女みたいな手は』と怒られた。そのなかでワシだけが『お~いいマメ作っとるな。これぞプロの手だ』と褒められて、嬉しかったなあ。

 

 で、ようやく効果が出たのが1年めの秋季キャンプ。それまで飛ばなかったボールが、軽くオーバーフェンスするようになった。ワシ以上に驚き、注目してくれたのが当時の二軍監督。それからだよ。捕手としての基本技術を教えてくれたのは」

 

 2年めは一軍の出場はなかったものの、3年めのハワイキャンプには二軍捕手としてはただ一人抜擢された。当時、海外旅行すら珍しい時代で、先輩選手たちは練習もそこそこに、毎晩、夜の街に繰り出した。そんななかでも野村さんは毎日の素振りを欠かさなかった。

 

 帰国後、故・鶴岡一人監督に、「キャンプは観光気分の選手ばかりで大失敗だった。唯一、野村に使える目途が立ったことが収穫」と言わしめた。

 

 その後、開幕スタメンを勝ち取るも36打席ノーヒットなど、不名誉な記録を作る。だが、それでも素振りをやめなかった野村さんは、4年めには定位置を獲得し、30本塁打を記録した。

 

「いまの選手は素振りをしない。マシンでの打ち込みばかりやっとる。でも、なんでも段階があるんだよ。基礎、基本、応用の順。基礎、基本(素振り)を飛び越え、すぐに応用(マシン)に入るからだめなんだよ。22歳くらいまでは基礎を固めるべき。それから応用
にいっても遅くない」

 

 努力を積み重ねたからこそ、球界に名前を残す名選手、名監督になれたのだ。

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