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怒らない「内村光良」一度だけ怒ったのはウド鈴木に対して

バラエティFLASH編集部
記事投稿日:2017.03.21 06:00 最終更新日:2021.07.16 16:47

怒らない「内村光良」一度だけ怒ったのはウド鈴木に対して

 

「小さいころから純粋で素直な子。兄妹喧嘩もほとんどなかった。父親は『自分が叱り役で、母親が褒め役』と言っていたが、実際には父親も褒めてばかりだった」(近所の人)

 

 1964年生まれ、熊本県人吉市の酒屋の長男・内村光良(52)は、大物芸人になった。ひと癖もふた癖もある芸人が多いなかで、内村の特徴は「穏やか」。

 

 視聴率トップをひた走る『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系)など多数のテレビレギュラーを抱え、明治安田生命が調べた「理想の上司」アンケートで1位に輝いた。

 

「内村さんは怒らない」

 

 後輩芸人たちは皆そう評する。「理想の上司」らしく後輩に慕われ、まとめているのだ。

 

「小学校のころから内村はリーダーで、よく家に友達を呼んで遊んでいました。中学では野球部に入って部を盛り上げる一方、頭もよかったので生徒会に誘われていました」(同級生)

 

 中学3年生のとき体育祭の応援団長を務め、また学園祭ではチャップリンの映画を舞台化、作・演出・主演をすべて一人でこなした。中学の卒業アルバムに書いた夢は「映画監督」。高校生になると40名以上のクラスをまとめ、8mmフィルムで映画を撮影した。

 

「もちろん、内村くんが『やりたい!』と言い出したのがきっかけです。彼は『自分が自分が』と前に出るタイプではないし、怒ったり、カッとなったりしない。そんな内村くんにみんなついていきました。文化祭で上映されると、感極まったのか、彼一人だけ涙を流していました(笑)」(高校の同級生)

 

 卒業すると、上京して横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)へ進み、仕送り7万円の学生生活が始まった。南原清隆(52)とは同級生。当時、学校で漫才の授業を受け持ち、2人をデビューまで支えたのが河本瑞貴先生だ。

 

「最初の授業で自己紹介をしたんですが、内村くんは私ではなく、隣の女子学生のほうを向いて挨拶した。おもしろい奴だなぁと思いました」(河本氏)

 

 女子学生にはモテたが、映画や演劇では端役ばかり。そんな内村が注目を浴びたのは漫才の発表会だった。

 

「内村くんと南原くんは、2人とも別の相手とコンビを組む予定だったのがフラれてしまった。それで、余り者同士で組んだようです。最初に発表したネタはNHK教育の英語講座のパロディでしたが、これが本当におもしろかった。亡くなった内海好江師匠が、涙を流して感動していましたよ」(河本氏)

 

 好江師匠にスカウトされた2人は、卒業後の1985年にマセキ芸能社に入り『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)に出演。「ウッチャンナンチャン」としてスターへの階段を上り始める。

 

「卒業後の春休みも学校に来て、2人でコントを練習していた。ネタの台本作りはいつも内村くんがやっていたので、ブレイク直前は寝る暇もなかったと思いますが、彼は自分が決めた締切りを絶対に守りました。でも、その厳しさを他人に押しつけるタイプではない。相方の南原くんにすら、ダメ出しをしたことがないのではと思うほど」(河本氏)

 

 長い芸人人生のなかで怒ったのはたった一度だけ。『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(日本テレビ系)の企画でシンクロナイズドスイミングをする撮影のとき。

 

 キャイ~ンのウド鈴木は、内村の背中の上に乗る演技が何度やってもできなかった。内村はウドがふざけていると思ったのか「いい加減にしろ!」と水面を叩き、怒鳴った。あの内村の激怒に驚き、ウドをはじめ一同、硬直したという。それ以来、内村は一度も怒ったことがない。

(週刊FLASH 2017年3月14日号)

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