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中森明菜、急逝した妹・明穂の葬儀に姿を見せず…父は悲嘆
バラエティFLASH編集部
記事投稿日:2019.06.11 00:00 最終更新日:2020.09.11 12:56
衝撃の訃報が飛び込んできた。中森明菜(53)の妹で、元アイドルの明穂さんが世を去っていた。52歳の若さだった。
「肝硬変でした。亡くなる2週間ほど前から、ヘルニアも併発して……。毎日、ベッドの上でしゃべったり、看護師さんに付き添われてお風呂に入れてもらったりして、亡くなる2、3日前に見舞いに行ったときも、元気そうだったんです。
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亡くなったのは、5月27日。急に危篤だからと、病院から電話があって……。それで、きょうだいも集まって、お見送りしました」
末娘の最期を、振り絞るように本誌に明かしたのは、父の明男さん(85)だ。葬儀から8日後の6月6日、自宅から出てきた明男さんを、本誌が直撃した。
亡くなった2日後の5月29日。明穂さんの葬儀が、東京都清瀬市の葬祭ホールで、しめやかに営まれた。火葬場は併設されていないものの、最大120人ほどが参列できる、多摩地区で最大規模の葬祭場だ。セレモニーホールには中森家の親族も勢ぞろいしたという。
しかし、出棺するそのときにも、明菜が姿を現わすことはなかった--。
「家族が明菜に知らせようとしたみたいだけど……。『連絡が取れなかった』とか、『都合が悪いみたい』とか言っていました。結局、明菜は来なかったんです」(明男さん)
明穂さんは、「姉ちゃんに会いたい」と願っていたという。
1歳年上の姉を追うように、明穂さんが芸能界入りしたのは1987年のこと。初仕事は、ラジオパーソナリティだった。当時、明穂さんは「お姉ちゃんに負けずに頑張ります」と意気込んでいた。
「子供のころは、仲がよかったですよ。次女と明菜と明穂の3人は、それぞれ1歳違い。娘は4人いるんだけど、三姉妹のようでした」(同前)
明穂さんはデビュー後、テレビドラマに出演し、女優の道へ進む。上の写真は1988年、朝日放送の主催で、芸能人が集まったミニバイクレースに出場した明穂さんだ。すでにトップアイドルとして活躍していた明菜もその背中を押していたが……。
「1988年に、明穂さんは下着姿を披露した写真集を出版。さらに、ヌードで登場したビデオが発売された。ひと言も相談しなかったことに、明菜が激怒し、2人の仲は悪化してしまう」(スポーツ紙記者)
以来、姉妹の仲は暗転。そのうえ、実家や親戚との「金銭トラブル」が相次ぐ。溝が広がった明菜と家族を繫ぎとめていたのは、母・千恵子さんの存在だった。
「だが明菜が『お母ちゃん』と慕っていた千恵子さんは、1995年6月に死去。千恵子さんの葬儀以後、明菜は家族との連絡をいっさい絶ったとされている」(同前)
2010年に、明穂さんは交通事故に遭い、右足に後遺症が残った。さらに親族の不幸も続いたという。それでも、明男さんは、気丈にこう話す。
「明菜のひとつ上の姉も、この近くに住んでいますし、食事や洗濯は自分でやってます。まぁ、それも気ままでいいですよ。私、健康なんですよ。今、医者にかかるのは、せいぜい歯医者さんぐらい。家族みんな、おかげさまで元気にやっておりますよ」
じつは、その生活を支えていたのが、亡くなった明穂さんだった。
「明穂と2人でこの家に住んでいましたから……。ひとりぼっちになっちゃった。お葬式をやったばっかりで、すぐに納骨するのは寂しい。家族内でも、なるべく骨は置いておこうよって話しています」(明男さん)
絶縁から24年--。かつては手を取り合った妹・明穂さんの葬儀に姿を見せなかった明菜の心境を、長年、彼女を取材する芸能リポーターの城下尊之氏はこう察する。
「明菜が明穂さんの死を知れば、自分より若くして亡くなったことに、強いショックを受けるはず。しかし溝は深く、どうしても家族と顔を合わせたくないのでしょう。きっとひとりで悲しみ、落ち込むのでしょうね」
最後に明男さんは、明菜への思いをこう語った。
「『ぜひ来てほしい』と明菜に伝えてください。お姉ちゃんたちも会いたがっています。明穂の最期がこういう状態だったということは、明菜に伝えておきたいですから……」
父の思いは、明菜に届くだろうか。
(週刊FLASH 2019年6月25日号)