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野村克也わが人生「まあ俺は詐欺師の捕手だな(笑)」
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2017.01.13 20:00 最終更新日:2017.01.13 20:00
プロ野球に身を投じて60余年。球界屈指の名将として名を馳せた男は、己で培った教訓に加えて、多くのリーダー像を目にしてきた。
そんなノムさんが、いま、人生を語り尽くす! 球界に入ってから引退まで――。
■打者の素質を開花させた南海二軍監督の目利き
憧れの球界に飛び込んだ野村氏だったが、初めは想像していた環境との違いに驚いたという。
「プロは24時間野球をやっていると思って入ったんだよね。ところが、ひどい世界だった。いい給料をもらっているから、みんな夜な夜な街に繰り出す。
でも、俺はうまくなりたい一心で毎晩素振り。それを見た先輩が、『振ってうまくなるならみんな一軍だ。街にはきれいな姉ちゃんが待ってるぞ』と誘うわけ。
で、あるとき、二軍の監督がみんなを集めて『手のひらを見せろ』と言ったわけ。毎日の素振りで、俺の手はマメだらけ。すると監督が、『これがプロの手のひらだ』と褒めてくれた。それが、とても嬉しくてな。
それから、引退するまで欠かさなかったし、日本でいちばん素振りをした打者だと自負している。やはり続けることに意味がある。継続は力なりだし、努力に即効性はない。ずっとやって2、3年後に結果が出るんだよ。
いまの選手はマシンで球が打てるから、素振りをやらない。ただな、基礎を抜いて応用に入ってもいいことはない。家作りと一緒だよ」
苦境のなか、当時のリーダーからの褒め言葉が打者の素質を開花させた。3年めに正捕手のポジションを奪うと、その後は、南海を背負って立つ名選手への道を歩み続けた。
そして、野村氏と同じ時代、セ・リーグでは巨人の王貞治、長嶋茂雄が常勝軍団を牽引していた。
「巨人から相羽欣厚(あいばよしひろ)という選手が南海に移籍してきたときに言っていたんだけどね、巨人はONが率先して練習をしていると。
大選手のそんな姿を見たら、『自分らみたいなペーペーがやらないわけにはいかない』と。やはり強いチームには、選手のなかにも手本となるようなリーダーがいるんだよ」
ところで、知将・野村を語るうえで欠かせないエピソードのひとつが、ささやき戦術だ。打者のお気に入りのホステスをチーム関係者に調べさせ、『おい、○子は元気か?』とやる。そのひと言に、多くの主力選手が犠牲となった。
だが、じつは最初の犠牲者も野村氏だった。
「阪急に山下健という捕手がいて、『あれっ、構えを変えたか?』と聞かれたわけ。変えたつもりはないけど、気になって。もう、打つどころじゃなかった。でも、ベンチに帰って『いい作戦だ』と思ったわけ。始めたのは、それからだよ。いかに相手の気をまぎらすか。まあ、俺は詐欺師の捕手だな(笑)」
■球界の功労者に西武は冷たい反応
西武で迎えた実働26年め。本塁打王9回、ベストナイン19回、MVP5回、三冠王1回……。数々の記録を刻んだ名選手にも引退の影は忍び寄ってきた。
「1980年、9月ごろの阪急戦でのこと。8回1点リードされ、一死、一、三塁のチャンス。まあ、同点はまかせなさいと、意気揚々に打席に向かったら、いきなり代打を告げられた。『なに!』とはらわた煮えくり返る思いよ。
カッカして、ベンチでは『失敗しろ!』と念じてた。結果、ゲッツーでチャンスを逃し、試合も負けた。でもな、帰りの車の中では落ち着いてきて、仲間の失敗を願うようじゃ終わりだと。
それで次の日、根本陸夫監督らに引退宣言。そしたら、『長いことご苦労さん』のひと言だけ。引退試合も組んでくれなかった。『もう1、2年やってみては』と言われることを、ちょっとは期待していたんだ。
俺も球界のリーダーとしてやってきた自負があったし、ショックでな。いくら上に立っていた者でも、自分の能力を見きわめられて、他人から評価をつけられるものなんだと悟ったのは、そのときだよ」
野村氏は1970年から8年間、南海で監督兼選手を経験。そのときの苦労から、二度と監督をやりたいとは思っていなかったという。だが、野村氏の努力、頭を使った野球に心酔する者は多くいた――。
(週刊FLASH 2016年12月27日号)