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アントニオ猪木、亡き妻と病室で過ごした「最期の2カ月半」

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2020.05.30 06:00 最終更新日:2020.05.30 06:00

アントニオ猪木、亡き妻と病室で過ごした「最期の2カ月半」

 

「元気ですかー!!」
 取材開始早々、記者の耳に飛び込んできた、お馴染みのフレーズ。

 

 声の主は、2020年9月にプロレスデビュー60周年を迎える、アントニオ猪木(77)。長年、元気を売りにしてきた猪木だが、2019年8月に16歳年下の妻・田鶴子さんを亡くしてからは、一部で健康不安も囁かれていた。

 

 

 田鶴子さんについて、これまでマスコミに多くを語ることはなかった猪木。だが今回、その最愛の妻について、口を開いてくれた。

 

「彼女はカメラマンだったわけですけど、出会ったのは1998年4月、私が現役引退する少し前。パラオで写真集を作ったりとか、いろいろやりましたけど、いつも私の見栄えや着るものに、すごく気を遣ってくれましてね。

 

 べつに俺は、『もみあげが白くなろうがいいじゃねえか』と思うんだけど、彼女は違った。『常にカッコよくいてほしい』というこだわりを、持ってくれていたんでしょうね」

 

 田鶴子さんの死は、猪木本人がツイッターで公表していた。じつは田鶴子さんとの最後の2カ月半を、猪木は、病院でともに過ごしたのだという。

 

「私もいろんな持病があるもんですから、隣部屋に入れてもらいましてね。その2カ月半の間は、井戸にたとえると『こんなに深かったのか』っていうぐらい、彼女の情だとか思いだとかを、痛感させられましたね。

 

 それまでの俺は、ただただ突っ走って、突っ走って生きてたもんですから。『最後は自分の命に引き換えて、俺の寿命を延ばしてくれたのかな』というのが、彼女が亡くなった後の実感でした」

 

 印象深い思い出を聞くと、こんな答えが返ってきた。

 

「思い起こせば、いろんなことはあるんですけど……。北朝鮮、ブラジル、中米、パキスタン、イタリアでもそうだったんですが、現地の人は私を、たいへんなヒーローと思ってくれていたというかな。どこへ行っても、誰もが私のことを知っている。

 

 で、『そこでの写真は自分(田鶴子さん)が撮らないとダメだ』というところがあってね。私のイメージを崩さないために力を尽くすのが使命だと思っていたのか、晩年は(病気で)相当苦しかったと思うんだけど、もう必死に食らいついていくということでね。

 

 俺自身はカッコつけて、それこそ大見得切ってやってきた人生ですから。やっぱり裏と表じゃないけど、彼女は、自分の弱さを出せる相手だったし、気を楽にさせてくれましたよね」

 

 しみじみと語ってくれた猪木だが、新型コロナウイルスの感染拡大に対する日本政府の対応について聞いた途端、いつもの猪木節が飛び出した。

 

「まあ、ひと言で言えば、最初の認識が甘かった、情報がなかったという。第二次世界大戦のときにしても、いろいろな資料を見ると、日本が持ってる情報が間違ってたわけでしょう。

 

 今回のコロナみたいに、政府は何かあると必ず専門家会議というのをやりますけどね、じゃあ、この人たち、今までいったい、何やってたの? 今ごろ出てきて、偉そうにベラベラしゃべってるけど、なんにも信用できない。

 

 誰が悪いとは言いませんけど、すっかりあとになって話が変わってくると、都合よく話を変えてしまう。『お前ら、もっと自分の役割をしっかり考えろ』と。『テレビを利用して顔売るんじゃねーよ、バカヤロー』ってね」

 

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