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津田寛治「若手時代にチャンスをくれた恩人・大杉漣さん」とのエピソード
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2021.03.02 16:00 最終更新日:2021.03.02 16:00
「うーん、美味しい! あのころを思い出しますよね。ビールを一口飲んだときのあの旨さ。そのために今日一日、頑張ったみたいなね(笑)」
やきとんをかじりながら懐かしそうに話すのは津田寛治。東京・麻布十番の商店街にある「あべちゃん」は、煮込みとやきとんが名物の人気店だ。
30年ほど前、津田はこの店の近くにあるアオイスタジオの喫茶店でアルバイトをしていた。
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そこで北野武に直接プロフィルを渡したのが映画『ソナチネ』に出演するきっかけになったという話は、今では津田の伝説のようなものだ。
「あのころ、録音部の技師さんたちとよく来ました。北野組の話や街中へいろいろな音を録音しに行くという話を聞いたりしてね。
役者が平気な顔して演じていても、緊張してると声でわかるらしくて、芝居をいちばんわかっているのは録音さんなんですよね。
だから僕の場合、録音部は特別。ここで酒を飲みながらいろいろ教わりました」
今日もビールを……とすすめると、酒をやめてから3年ほどになるという。理由を聞くと、笑いながらこう続けた。
「社長に『いろいろ被害届が出てるよ』って言われて(笑)。飲むと余計なことを言うみたいで、やめないとまずいなって思ってたときに大杉漣さんが亡くなったんですよね。
そのとき撮影で京都にいたんですが、訃報を聞いたその日から酒をやめました。
2021年の『バイプレイヤーズ』(テレビ東京系)は僕も参加させていただいたんですが、大杉さんに呼んでもらったのかなっていうぐらい、温かい現場でしたね」
■親以上の世話をしてくれた大杉漣さん
大杉さんとの出会いは『ソナチネ』の撮影現場。集合場所で大杉さんと一緒になった。
「転形劇場の大杉漣さんといえば有名でしたし、舞台も観に行ってたので、あの大杉さんが目の前にいるんだなと。
舞台でよく見た寡黙な役の姿とは全然違って、すごく明るい方でね。僕の拙い映画の話をよく聞いてくれて。
『無能の人』(竹中直人監督・主演の映画)がいかに素晴らしかったかという話をしたら、『今度、竹中さんに会わせてあげるよ』って言ってくださって。
それだけでも嬉しかったんですが、そういうのってよくある話じゃないですか。
ところがある日、大杉さんから電話がかかってきて『津田くん明日空いてる? 竹中さんに会いに行くから一緒においでよ』って誘ってくださったんです。
スタジオに向かうバスの中で『僕は津田くんの親代わりじゃないから、自分で売り込むんだよ』というお言葉をいただきました」
休憩中だった竹中と昼食をともにすることになり、津田は『無能の人』がどれだけ好きかということを語り尽くした。
「それも大杉さんが、僕が話しやすいような空気にしてくれたんですよね。
竹中さんは『君はよく観てくれているね』と言ってくださって、ご自身が原稿用紙に書かれた詩を読んでみてと。
それで僕が読むと『いいね。でもそこは内に入りすぎてるかな』なんていう会話をしているうちに昼休みも終わりましたが、竹中さんは休憩のたびに戻ってきて、僕の話を延々と聞いてくださった。
実際に会わせていただけて、本当に嬉しかったですね」
これには後日談がある。津田がアルバイトから帰ると自宅の留守電に竹中からのメッセージが残っていた。
「ピーと再生させると『もしもし竹中です』と。四畳半一間の汚ない部屋にあの声が響いて、びっくりですよ(笑)。
僕に、ある役をやってもらいたいんだけどどうかなという内容で。これは大杉さんのおかげだと思って、すぐにご自宅にお電話しました」
あいにく大杉さんは留守だったが、夫人に電話した理由を話すと思いもかけない答えが返ってきた。
「じつはスタジオに行った日は、大杉さんはお子さんを幼稚園に迎えに行く約束だったと。
急に行けなくなったと電話が来たので理由を聞くと『今、若い俳優が仕事を取れるかの瀬戸際で、俺が帰ったら話が終わるから帰れないんだよ』と。
大杉さんは後があるのに、僕のためにあの場にいてくれたんです。あれだけ『親代わりじゃないから』と言っていたのに、親以上のことをしてくださったんですよね。
その後もSABU監督や黒沢清監督を紹介していただき、そのおかげでSABU監督の作品にも出ることができました」
大杉さんが亡くなったあと、彼にお世話になったという俳優によく会うという。
「ご本人が食えるようになるまで苦労されたから、とにかく若手を食えるようにしてやりたいと。
若手に活躍してもらって日本映画界を盛り上げていきたいという思いがすごく強い方だったんだと思います。大杉さんは本当に日本映画の父ですよね。
俳優はこうあるべきとか一度も言われたことはないですが、背中からたくさんのことを教わりました。
よく『現場がすべてなんだよ。現場が楽しければ作品がまずくてもそれはべつにいいんだ』っておっしゃっていたんですが、今になるとその言葉の意味がすごくわかります」