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「小室哲哉のプロデュース力」なぜ無名の新人をヒット歌手にできたのか

エンタメ・アイドル 投稿日:2021.03.24 11:00FLASH編集部

「小室哲哉のプロデュース力」なぜ無名の新人をヒット歌手にできたのか

tohko。芸名を漢字表記にした『籐子』はオリコン最高3位を記録

 

■芸名からMVまですべてをプロデュース

 

「華原朋美は小室氏のイニシャル『TK』で表現できる芸名に改名。鈴木亜美もデビューのときにわかりやすいように『あみ』にしました」と音楽専門誌編集者。その「芸名へのこだわり」をtohkoが裏づけてくれた。

 

「私がデビューすることが決まり、芸名をどうするかとなったときに小室さんから3つ提案されました。tohkoと籐子とトーコです。

 

 tohkoは、小室哲哉&日向大介の共同プロデュースなのでお2人の名前が組み込まれています。

 

 籐子は、ナチュラルでしなやか、だけど強さのある歌手になってほしいという意味がこめられていました。

 

 トーコは、デビューするとき、新人のお披露目なので誰にでも覚えてもらいやすいカタカナ表記にしようとなり、それぞれを使い分けました。

 

 MVやジャケットの撮影でも、小室さんのこだわりは感じられました。『こういうイメージで』と細かく伝えますし、衣装やヘアスタイル、出来上がった写真のセレクトなどもすべて小室さんがしていました。

 

 夜中に、お一人で黙々と音入れをしている姿を見かけたこともあります。『音楽が本当に好きなんだな』って新人の私は感動しました」

 

 当然だが小室は多忙を極めた。globeで活動をともにしているマーク・パンサーも、2017年に『FLASH』の取材で当時をこう振り返っている。

 

「4枚めのシングル『DEPARTURES』(1996年)でセールス200万枚を達成、ダンスキャンプでは10万人を前にライブをしました。忙しすぎてあのころの記憶もあいまいです」

 

 疲れ果てて飛行機のファーストクラスで布団を敷いて寝ていたこともあったという。

 

 それでも小室は曲作りをした。よく小室は「感性の人」といわれるが、じつは「泥臭い作業」を厭わないミュージシャンでもあったのだ。

 

■令和へ受け継がれる小室の「音楽」

 

 2017年3月には当時の天皇皇后両陛下が訪問されたベトナムでの晩餐会で、現地の盲学校の生徒と音楽を披露。同年の秋の園遊会に招待され、両陛下と談笑した。

 

 2000年には九州・沖縄サミットの歓迎レセプションで沖縄県出身の安室奈美恵が歌ったイメージソング『NEVER END』をプロデュースした。

 

 だが、このころから小室は自身の才能に限界を感じているようにもとれる発言が多くなり、音楽界における存在感は次第に薄くなっていった。

 

 あるインタビューでは「宇多田ヒカルさんの曲が僕を終わらせた」とも語っている。

 

「それでも小室氏の才能は不変です」と近田氏。

 

 平成の時代にさまざまな金字塔を打ち立てた小室は、令和の音楽シーンにどのような影響を与えているのだろうか。

 

「リアルタイムで小室氏の曲に熱中した世代の孫世代が今、カラオケで安室ちゃんの曲を歌っています。

 

 これはすなわち、TKの曲は普遍で、確実に今の制作者、音楽ファンに受け継がれているということです」と近田氏は断言する。

 

 その証左といえるのが、作曲と編曲を担当し、2020年7月に配信された乃木坂46の『Route 246』である。作詞は“盟友”の秋元康氏だ。

 

 小室はこの曲の配信開始に合わせて「ここ数年ゼロからアートを学び、あらためて概念、すなわちコンセプトを持った創造物の貴重さを感じています」とコメントしている。

 

 かつて小室は著書『罪と音楽』で「女性シンガーの曲に詞を書くとき、たいてい渋谷を意識した。渋谷で起きているような、もしくは起きていそうな恋愛、渋谷に似合う言葉、渋谷の香りなど、渋谷を歩いて五感で感じるすべてを忘れないよう心がけた」と書いている。

 

 小室の研ぎ澄まされた感性に「概念」がプラスされた。平成から令和になり、小室は深化していた。小室伝説はこれからも続く。

 

 次のページでは、小室哲哉の略年譜とこれまでプロデュースしてきたアーティスト一覧を紹介する。

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