「あるときジムに『体験で来ました』と、ニット帽にマスクで、あいさつしても名乗らない男性が来たんです。僕も最初は『失礼な人だな』と思って、少し厳しめにトレーニングしたんですよ(苦笑)。でも、いい動きをしていて。
練習後に、『ふだん何をやられているんですか?』と聞いたら『すいませんでした。東山紀之と申します』と。びっくりしましたね」
その後、松浦はジムで東山の練習を見ることになった。
「東山さんに教えているうちに、会話の中で『役者をやりたくて、東京にきたんです』と話したんですね。すると、『やったらいいじゃん。なんでやらないの?』『(トレーナーで忙しいなんて)それは言い訳だよ』と言われました。
そして東山さんは、『松浦君がボクシングを教える代わりに、僕がお芝居を教えるから』と言ってくださって、そこから僕は東山さんの “お付き” を始めたんです」
一念発起し、2013年にジムを辞めた松浦は、東山の専属トレーナーを務めながら、彼の仕事現場に同行する生活を始めた。俳優としての覚悟も、その中で強くなっていったという。それは、2014年におこなわれた東山出演の舞台の稽古期間のことだった。
「そのころは、ずっと東山さんと一緒にいて、出演舞台の台本も渡してもらっていました。ある日、セリフ合わせをする稽古場までの車中で、突然、東山さんが運転している僕にセリフを言ったんです。僕が戸惑っていると『あ、(セリフが)入ってないんだ』と言うんですよ。僕が謝ると『まあ、いいよ』と。
そこから1時間近く、2人しかいない車中が無言になって……。その日の帰りにも同じように、東山さんがあるセリフを言って、僕が次のセリフが出てこないでいると、『いいんだよ』と無言になったんです。『これはまずい』と思って、東山さんが出ているシーンのセリフを全部覚えたんです。
次のセリフ合わせのときの車中でも、また東山さんはセリフを言ったので、僕はそれに返したんです。それが続いて安心していると、今度は東山さんは自分が出てないシーンのセリフを言ってきたんですよ。また、それを僕が返せないでいると『あ、そうなんだ』という感じで……。
言われたのが、『松浦君は天才なんだね』と。『僕は自分自身が中途半端な人間だと思うから、台本くらい全部覚えておかないといけないと思っている』ということを言うんですよ。もう必死になって、台本を丸ごと覚えました」
当時、東山が稽古をつけていた舞台は、ときどき出演者が欠席することがあったという。
「セリフ合わせで『今日は〇〇さんがいません』となったとき、東山さんが僕を呼んだんです。それで『彼は全部(セリフが)入ってますよ』と。そういうことが何度もあって、舞台のスタッフからは『松浦君は何者なんだ』と聞かれましたね。
僕も一流の俳優さんたちとセリフを合わせることができて、とても貴重な経験になったので、東山さんに感謝を伝えました。そうすると、『僕は何もやってないよ。台本を覚えたのだって、松浦君が自分でやったことだから』と……。シビれましたね」
東山の “お付き” の経験も生きたのか、初めて本格的な現場に入った『百円の恋』では、主人公のセコンドにつくトレーナー役と、殺陣の監修も任されることになった。この作品が話題を呼び、松浦自身もその後の『あゝ、荒野』など、ボクシングを題材にした映画への出演に繋がった。
また、現在放送中のドラマ『私の夫は冷蔵庫に眠っている』(テレビ東京系)では、ボクシングとはまったく関係のない出版社の編集者役を演じている。
「役者や作品に関わるときに、東山さんに言われた『そこにいることが大事なんだよ』という言葉を、いつも意識しているんです。舞台でも撮影現場でも、そこにいられるだけのものを自分が持っている、それをつねに磨き続けなきゃいけないということだ、と僕は思っています」
東山の言葉を胸に、松浦は役者人生で“激闘”を演じる――。
まつうらしんいちろう
1982年9月22日生まれ 長崎県出身 大学卒業後に上京し、ワタナベボクシングジムでトレーナーになる。その後、役者に転身し、『百円の恋』(武正晴監督)、『すばらしき世界』(西川美和監督)、『万引き家族』(是枝裕和監督)などの映画に出演。映画『かぞくへ』では主演だけでなく企画原案もおこなった。現在、出演映画『BLUE/ブルー』が全国公開中
写真・千葉高広