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山田たかお、坂本九さんが教えてくれた「いつもニコニコ」の大切さ
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2021.04.16 11:00 最終更新日:2021.04.16 11:00
■『紅白』出場も『ペチャパイ』でバンド脱退
「僕が18歳のときちびっこ大喜利に出ていた新井康弘、江藤博利、今村良樹とデビュー曲『透明人間』(1974年)を出しました。だけどまったく売れず、自分でもびっくり(笑)。
その後、3曲めの『みかん色の恋』がヒットしてくれて翌年の『NHK紅白歌合戦』出場につながりました」
ずうとるびの曲のほとんどを山田が作詞・作曲。ザ・ドリフターズやクレイジーキャッツなどコメディもできるバンドに憧れ「和製モンキーズ」を目指していた。しかしそれが路線対立の火種となり、山田が脱退することになる。
「ほかのメンバーは歌って踊れるフォーリーブスさんに憧れていたので、ずうとるびは真逆。
僕が新曲で作った『ペチャパイブギ』で亀裂は決定的になりました。『ペチャパイ? もう、できないよ』となって」
1977年に山田はグループを去る。同年、一般公募で池田善彦が加入するが、1982年にずうとるびは解散した。
「そして、ひょんなことから昨年に再結成。江藤と新井が舞台で共演して飲んでいるときに『もう一度、ずうとるびをやりたいね』となったらしいんです。
その場から僕に電話があり新井が『復活しようよ』って。僕も『いいよ』と即答。新井は『本当に?』と何度も聞いていました。江藤? 酔っ払ってグデングデン。話ができない状態でした(笑)」
だが、コロナ禍でライブは中止を余儀なくされた。
「そこでYouTubeに『ずうとるびチャンネル』を開設。
懐かしい映像や、今の僕たちの歌も聴いていただけます。何年もたっていますが、振付は覚えているもんですね」
■「座布団運び」は、山田の人生に何をもたらしたのか。
「(林家)たい平師匠が『座布団運びなんて誰にでもできるよ』って笑うんですけど、僕もそう思います(笑)。
だから37年間クビにならず、よく続いたと不思議に思っています。いつクビになるかという不安は、今でも持っていますけど。
座布団運びを始めてすぐ、横山やすし師匠に『体が小さい山田君はボート乗りに向いている。俺が教えたる』とスカウトされました。その道に行ったらどうなっていたかな」
1987年にはスティーブン・スピルバーグ監督の『太陽の帝国』に出演。
「戦争映画でしたが『日本のコメディアンを入れたワンシーンで笑わせたい』と監督がオーディション的に会いに来てくださいました。
『何かジョークを』となったので『アメリカから来た友人が日本で相撲を見た。行司の軍配を欲しがったので帰るまでグンバイ(グッバイ)』と言ったら『グレート!』と褒められました。監督、ちゃんとわかってくれたのかな。
『笑点』の収録と掛け持ちだったのでロケ地のイギリス、スペインはファーストクラスで移動。さすがハリウッドです。
話がそれましたけど、座布団運びは僕に『笑顔を絶やさないこと』を教えてくれました。
坂本九さんと共演させていただいたとき『いつもニコニコしていれば友達も集まり人気者になれるよ』と教えられたので僕もニコニコしながら師匠たちを突き飛ばしています(笑)。そうすればお客さんも腹を抱えて笑ってくださいますからね」
やまだたかお
1956年8月23日生まれ、東京都出身 10歳のときフジテレビ『ちびっこのどじまん』でデビュー。1970年から日本テレビ系『笑点』“ちびっこ大喜利”コーナーにレギュラー出演。1973年“ずうとるび”のメンバーとして歌手デビュー。1984年より『笑点』大喜利の6代目座布団係に就任。落語家としても高座名、鈴々舎鈴丸で活躍
炭火亭
住所 神奈川県横浜市港北区高田西1-2-28
営業時間17:00~24:00 不定休
※営業時間は変更になる場合があります
写真・野澤亘伸
(週刊FLASH 2021年4月20日号)