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黒のカリスマ・蝶野正洋が回顧「nWoでアジア進出目指した」/8月8日の話
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2021.08.08 06:00 最終更新日:2021.08.08 06:00
1998年8月8日、「黒のカリスマ」と呼ばれたプロレスラー・蝶野正洋が、大阪ドームで藤波辰爾とのタイトルマッチに勝利し、第22代IWGPヘビー級王座を獲得した。
サングラスに、足首まである黒いガウンを羽織ったヒールとして人気を博した蝶野が、プロレスの世界に入ったのは1984年のことだった。
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新日本プロレスに入門した蝶野は、同年プロデビュー。アントニオ猪木の付き人をしながら練習を重ね、1987年の「第3回ヤングライオン杯」で優勝。
優勝のご褒美だった海外武者修行を経て帰国してから、武藤敬司、橋本真也と「闘魂三銃士」を結成した。
ヒールに転向したのは、1994年のことだ。「体制に守られたレスラーはレスラーではない」と武闘派宣言を出し、それまでの白を基調としたコスチュームを黒に一新。
1997年には、すでにアメリカのプロレス団体WCWから生まれた「nWo」の日本支部的なユニットとして「nWoジャパン」を結成する。グレート・ムタこと武藤敬司が加入したこともあり、nWoジャパンは人気・実力ともに勢いを増していった。
今回、あらためて蝶野に当時を振り返ってコメントを寄せてもらった。
「IWGPヘビー級王座のときは、プロレスラーとして一番勢いがありましたね。2年ほど続いたnWoブームのなかで、一番のピークじゃないかな。
当時はどこに行ってもメインイベントを張っていたから、この日もタイトルマッチだからといって気負うこともなく、いつもどおり。
この頃、nWoジャパンは台湾やフィリピンなど、海外でも人気が出ていました。1998年、ちょうど大阪ドームの後で、武藤と一緒に台湾に呼ばれたこともあります。
フィリピンではWWEやWCWも流れていたけど、新日本のほうがアジアでは影響力がありましたから、逆に向こうが苦戦していたぐらい。俺らnWoジャパンはアジアに進出するしかない、と息巻いていた時期でした」
その後、蝶野は首の負傷により、長期離脱を余儀なくされる。1999年に復帰後はnWoジャパンには戻らず、新たに「TEAM2000」を結成。2000年には「黒の頂上決戦」として蝶野と武藤のタイトルマッチがおこなわれ、蝶野の勝利によりnWoジャパンはTEAM2000に吸収された。
現在、蝶野は現役レスラーとしては第一線から退いているが、解説者としてたびたび試合に登場。また、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!絶対に笑ってはいけない』(日本テレビ)シリーズのビンタ執行役などでも人気だ。