エンタメ・アイドルエンタメ・アイドル

“日本一サムネでみるおじいちゃん” 動画では知りえない柴崎春通氏の「経歴」心臓手術は6回も【Watercolor by Shibasakiインタビュー・後編】

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2022.06.05 11:00 最終更新日:2022.06.05 15:37

“日本一サムネでみるおじいちゃん” 動画では知りえない柴崎春通氏の「経歴」心臓手術は6回も【Watercolor by Shibasakiインタビュー・後編】

動画内にも登場する愛猫のマロンと。もう1匹のトマトは警戒しており、写真に収めることができず……

 

――講師のお仕事は、大学を卒業されてから始められたんですね。

 

 そうです。大学卒業の時期になっても、例によって僕は何も考えていませんでした。卒業式も出ず、家でひっくり返っていたんですが、友達が「先生がお前のこと呼んでるからおいでよ」って言うんです。

 

 わけもわからず行ったら、その先生が「柴崎くん、アメリカから来た『講談社フェーマススクールズ』っていう美術の通信教育をやっている会社があるから、行ってみたら」と教えてくれたんです。給料を聞いたら「5万円ぐらい」。当時は大学の初任給で3万円程度でしたから「行きます!」と即答でした。

 

 面接は散々でしたけどね(笑)。作品を持っていったら、外国人の絵描きと、日本の絵描きが何人かいて、僕の絵になんだのかんだの文句をつける。

 

「ちくしょう、二度と来るか」って思いましたが、後日、紹介してくれた先生に「もう1回行っておいで」と言われて、行ったら「じゃあ、明日から来て」と言われたんです。それが、講師人生の始まりです。

 

 だから、僕の経歴はぜんぜん自慢できないんですよ。ほんと、そういう感じで生きてきちゃった。

 

――でも、講師のお仕事はとても長く続いたんですね。

 

 最初は大変でした。入社当時は24歳でしたから、錚々たる絵描きたちのなかで、僕は何の実績もない下っ端です。ほかの先生の筆を洗ったり、仕事の一部をもらったり、完全な上下関係ができあがっていました。

 

 一時期は本当につらくて、限界が来てしまって、田舎に帰ったこともあります。でも、母親の涙を見て、東京に戻りました。そうこうしているうちに、転機が訪れたんです。当時はフェーマススクールズが日本に来てから2年めぐらい。日本の絵描きも、海外から来た絵描きたちからダメ出しされるレベルだったんです。

 

 僕はアシスタントでしたから、他人の絵のダメなところやいいところ、どう描けばいいのかをひたすら見て、勉強することができました。そのうちある日、任された仕事が評価されて、アシスタントから講師に昇格することができたんです。

 

 先輩の絵描きたちと仕事の上で競争できるようになってからは、一気に頑張れるようになりました。僕より学歴も経験も上の人たちを追い越していくには、彼らができないことをやるしかありません。僕は自分の得意ジャンルを決めず、どんな絵でも、どんなモチーフでも、どんな画材でも絵を描けるようになろうと決めました。

 

 なおかつ、誰よりも早く、的確に。そうして頑張っていたら、給料にもダイレクトに跳ね返ってくるようになったんです。1年契約という厳しい世界でしたが、それだけに大きな自信になりました。

 

●仕事と親の世話 “二足のわらじ” の40代

 

――講師活動と同時に、絵描きとしての活動もされてきましたが、作品をコンクールに出されたことはあるんでしょうか。

 

 じつは先輩たちにすすめられて、何度か出したことはあるんです。でも “ああいう世界” が本当に嫌いでした。

 

 知らないおじいさんたちがエバッている上下関係は嫌いだし、自分の絵がいちばんいい場所に張り出されないと納得いかない。どうにも性に合いませんでした。

 

 それからは自分が描きたいものをひとりで描いています。講師としてガンガン稼いでいたので、自分の絵を売る必要もありませんでしたから。

 

 親が歳を取ってくると、自分の家庭と仕事を回しながら、親の世話や田んぼの面倒も見なくてはいけない時期が続きました。当時は二足のわらじ状態で大変でしたが、いよいよ限界がきて、親が農業をやめたあたりから、精神的にすごく楽になりました。それが、50歳近いころですね。

 

 自分の絵を描くことも楽しくなって、それから個展を毎年やるようになりました。米国に留学に行ったこともあります。ニューヨークのアパートに移った朝に「9.11」が起きたのには驚きましたね。それでも、現地ではいろいろな出会いがあって、プラザホテルで個展をやるなど、とてもいい経験になりました。

 

――活発に活動されている柴崎さんですが、2021年6月には、心臓の疾患で入院されていたと、YouTubeでお話されていました。

 

 心臓は、もう6回ぐらい手術をしているんです。昔、個展が終わってから車で家に帰るとき、高速で急に具合が悪くなったときは、さすがに「俺、死ぬな」と思いました。どうにか帰って、すぐに大きな病院で手術しました。いまは、ペースメーカーを入れて生活しています。

 

 そんなこともYouTubeでお話していたら、「じつは私もこんなことが……」といったコメントをたくさんいただきました。お互いに、よく気持ちがわかるので、労りあえるんです。

 

 僕もそろそろ75歳になりますから、どんなに頑張っても、ちゃんと手が動くのはあと5年かと思います。リミットが来るまでに何をすべきか。いまは時間を凝縮して使えるような気持ちでいます。

 

――子供のころから絵を描き続けて、現在74歳。柴崎さんにとって、好きなことを続けるコツはありますか。

 

 楽しければ、人間なんでもできますよ。僕は毎日、寝るとき、「明日は何が楽しくておもしろいかな」と考えるんです。そうして朝起きると、いくつも予定を立てちゃう。今日はあれとこれと、あれもできるかな。そうやって、おもしろいと思うことだけを追いかけてきました。

 

 つまらないことや嫌なことはやりません。それから、人のあとをくっついていくことほど、つまらないことはない。

 

 僕は昔、漢文の授業で習った「鶏口牛後」という言葉が大好きです。人間が生きていくときは、後ろにくっついていくだけの牛の尻尾じゃダメ。どんなに小さくても、先に立っていける鶏のくちばしになりなさいという意味です。座右の銘にしています。

 

 だから、生徒さんたちの先頭に立って「さあ、いきましょう!」って歩くのは大好き。お山の大将です。小学校のときから、通信簿に「協調性がない」って書かれ続け、そのまんま成長してしまいました。直らないね、人間って(笑)。

 

――YouTubeにTikTokなど、次々と新しいことを始める柴崎さんですが、今後、挑戦してみたいことはありますか。

 

 YouTubeは、どうしても一方通行になりがちなメディアです。ですから、もっと双方向にコミュニケーションができる配信をやりたいと思っています。

 

 いま現在も、YouTubeのメンバーシップに加入してくださっている方向けに、月2回の生配信をしているんです。視聴者さんがコメントしてくださって、僕もリアルタイムで返事をしながら絵を描いていきます。外国の方も参加してくださるので、通訳の方も入りながら、配信をしています。

 

 今後は、互いに顔を見られるような配信もやっていきたいです。そうしたら、もっときっと楽しいに違いない。近々、始められるよう、準備に取りかかっています。

 

 僕は、筆を走らせられる時間も、人生も残り少ないから、頑張らないといけません。僕の生徒さんには、冗談で「人間は、ちょうど手が震えてきたころにいい絵が描けるんだ」なんて言うんですけどね(笑)。

 

写真・久保貴弘

 

( SmartFLASH )

続きを見る
123

今、あなたにおすすめの記事

エンタメ・アイドル一覧をもっと見る