前菜からメインまで150種類以上の本格的イタリアンが楽しめる東京・池尻大橋の「オステリア・ヴォーノ」。
美味しいものには目がないという田畑智子は、「このお店は何を食べても美味しいんです。結婚する前から来ていて、夫婦で来ることもありますよ」とニコリ。必ずオーダーするというマルガリータを堪能した田畑は12歳でデビューし、今年で30年めを迎える女優人生を振り返った。
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「デビューは相米慎二監督の『お引越し』(1993年)です。前に出て何かをすることが苦手な引っ込み思案な小学生だったのですが、実家のお店に来てくださった相米監督と出会い、ぜひとのことで出演を決めました。撮影が始まってからは毎日が本当につらかったです」
初めての撮影現場は過酷だった。何度演じても相米監督の「OK」が出ない。
「監督は『もう1回』しか言わないんですよ。当時の私は何がダメなのかまったくわからず、OKをもらってもどこが今までと違うか想像もできなくて……。終わったときはもう二度とやるもんかという気持ちでいっぱいでした(笑)。
撮影期間は2カ月だったのですが、いまだにあれを上回るしんどさは経験したことはない。あれがあったから、どんなことでも耐えられるんだと思っています」
デビュー作は評価され、田畑は数々の新人賞を受賞。学業を優先しながらも、久世光彦さん演出のドラマに出演するなど女優を続けていった。
「映画が認められたことで、この場所も悪くないかもと少し思うようになりました。中学生になって、そんな気持ちで久世さんの作品に出演したのですが、またもやしごかれて。何回も同じシーンを撮り直される毎日でした。
ただ同じことをしていても、デビュー作のときのような『帰りたい』ではなく、『なんとかしてOKをもらいたい』という気持ちが芽生えたのを覚えています。演技ができるとかできないとかは別で、自分が生きている世界とは違った世界を体験できるのがおもしろいと思うようになりました」
とはいえ「演技が楽しい」とまでは思えなかった。それが変わったのは2000年、連続テレビ小説『私の青空』(NHK)のヒロインに抜擢されてから。どんな状況でも笑顔で頑張る主人公・なずなを演じ、「楽しさ」を知った。
「10カ月という長い期間、同じ役を演じるのは初めてのことでわからないことばかりでしたが、すごく楽しかったです。もちろん芝居について悩んだりはしましたが、これまでは芝居がなんなのかもわからず悩むところまで行き着いていなかった私としては、やっと悩むことができたというか。北山なずなという女のコの人生について考えてお芝居をしていることも大きな発見でした。相米監督と久世さんには申し訳ないんですが、ようやくこの仕事を続けたいという欲が出てきたんです」
だが、いいことばかりではなかった。作品が終わると、「朝ドラのヒロイン」というイメージから脱却できず、悩む日々が始まった。
「やはり影響力がすごいんですよ。なずなちゃんは元気で明るいコだったので、そのイメージが田畑智子にもついたというか……。あのころはなずなちゃんではなく、私に何ができるのかと常に考えていた気がします。で、たどり着いたのはいろいろな役を演じること。役を自分の中に1個ずつ積み重ねて、力にしていくことが大事かなと」
以降、映画やドラマ、作風や主演・助演を気にせずさまざまな作品に挑戦し続けている。
「偏りたくないというのがどこか頭の片隅にあります。今の私にとって、『あの役、田畑智子だったの?』って言われることがいちばんの褒め言葉なんです。カメレオンじゃないですが、役によってコロコロ変われるのが私の理想です」
30歳のときに撮影した映画『ふがいない僕は空を見た』(2012年)では大胆な濡れ場を演じて話題を呼んだ。
「抵抗はなかったです。だって演じた里美という女性の人生を描くために必要なことなので。私が演じているけど私ではないという感覚。過激なシーンもその人を表わすために必要なひとつだっただけなので。嫌という気持ちも恥ずかしいという感覚もないかも。それは今でも変わっていないです。きっと今後も、役として必要なら脱ぐことだってあると思いますよ」