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中森明菜『スローモーション』後にポツリ「たぶん、清瀬に帰るの」“花の82年組”後発で曲集めに苦心【歌姫証言集(1)】
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2022.11.16 06:00 最終更新日:2022.11.16 06:00
昭和の歌姫が、令和の世に復活を期待されている。中森明菜。57歳。
1980年代を駆け抜けた孤高のアーティストが、表舞台から姿を消して久しい。だがついに2022年8月、新事務所を設立し再始動を宣言。年末の『NHK紅白歌合戦』への出演が取りざたされている。
芸能界の荒波に対し、彼女はその実力を武器に敢然と立ち向かい、時に傷ついた。その姿と歌声が、ファンの心をつかんでやまない。証言で、明菜の「これまで」と「これから」を描く特別読物。
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1981年11月11日、オーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系)の予選を勝ち抜いた8名の候補者が都内の会場に集められた。
プロダクションやレコード会社の“スカウトマン”に向けたお披露目会である。新興のレコード会社、ワーナー・パイオニア邦楽部3課の小田洋雄と島田雄三は、16歳の中森明菜に注目していた。明菜は予選で山口百恵の『夢先案内人』を歌い、史上最高得点となる392点を獲得していた。
「下見会でもいちばん印象に残ったのが明菜でした。かわいかったし、歌がうまかった」(島田)
決戦大会では明菜の争奪戦が繰り広げられる――。島田はそう確信した。くしくも島田が明菜に出会ったこの日は、ワーナー・パイオニアの創立記念日だった。
1週間後の11月18日、『スタ誕』決戦大会。候補者全員の歌唱が終わり、いよいよ最終審判。明菜が「いつも笑顔で頑張りたいと思います」と頭を下げると、獲得の意思を示すプラカードが11枚上がった。その反響の大きさに、会場はどよめいた。
「厳しい争奪戦になると思いました。私たちはプロダクションの研音と手を組み、電通にも協力を仰いで『明菜獲得プロジェクト』をスタートさせました」(同)
後日、日テレの会議室で明菜と母親を交えた面談がおこなわれた。ワーナー・研音チームによる社運を懸けた大プレゼンが始まった。
「あなたのためならなんでもやりますからウチに来てくださいと、猛アピールしました。明菜は黙ってこちらの話を聞いているだけだったので、こんな小心者で大丈夫だろうかと不安になりました。あとになって猫をかぶっていたとわかるんですが(笑)」(同)
はたして、ワーナー・研音チームは明菜争奪戦に勝利する。1981年に日テレを退社した花見赫(はなみ・あきら)が研音の社長に就任したため、「花見にご祝儀を」という話でまとまった。まもなく明菜のデビューが1982年5月1日に決まった。
小泉今日子、早見優、石川秀美といった“花の82年組”のデビューが明菜よりも早かったため、島田は曲集めに苦戦していた。
「売れっ子の職業作家さんに頼んでも断わられました。ほかのアイドル、松田聖子に書いているからダメだとか」(同)
島田はなりふりかまっていられなくなった。有名無名関係なく、誰かに書いてボツになった曲でもかまわない。一切条件をつけず作家事務所に曲の提供を呼びかけた。
1982年1月、島田はシンガー・ソングライターの来生たかおに会った。来生は薬師丸ひろ子の『セーラー服と機関銃』で大ヒットを飛ばしていた。
「我々が立てた明菜のコンセプトのひとつが『新しいタイプのアーティスト』だったんです。楽曲やイメージ、透明感のある声など、あらゆる面で新しかったのが薬師丸ひろ子さん。明菜とはまったくタイプは違いますが、彼女と似て非なるものを作ればうまくいくという自信がありました」(同)
同じころ、明菜のレッスンが始まった。担当したのはボイストレーナーの大本恭敬。
「明菜は絶対に言い訳をしなかったし、できないことは何度でもトライしていました。くじけず唇を噛んで悔しさを噛み殺してついてきました。彼女の歌声は表現が豊かで物語性がありました。この点は天性のものでしたね」(大本)
明菜のデビューシングル『スローモーション』は、オリコン初登場58位を記録した。明菜は島田にこう言った。
「私ね、たぶん、1、2作レコード出させてもらったら清瀬(地元)に帰るの」
明菜はまだ自分の成功を信じていなかった。