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鮎川誠さん死去 生前に語っていた「シナロケ誕生秘話」「最愛の妻・シーナさんとの永遠の別れ」

エンタメ・アイドル 投稿日:2023.01.31 18:50FLASH編集部

鮎川誠さん死去 生前に語っていた「シナロケ誕生秘話」「最愛の妻・シーナさんとの永遠の別れ」

2001年11月、故・松田優作さんの13回忌に訪れた鮎川誠さん

 

 ロックバンド「シーナ&ザ・ロケッツ(シナロケ)」の鮎川誠さんが1月29日、すい臓がんのため亡くなった。享年74。

 

 福岡県久留米市出身の鮎川さんは1975年、ブルースバンド『サンハウス』でメジャーデビュー。北九州市出身のシーナさんとは1976年に結婚し、三女をもうけている。1978年に上京し、シーナさんをボーカルとした「シーナ&ザ・ロケッツ」を結成。「ユー・メイ・ドリーム」のヒットでブレイクを果たし、長年、日本を代表するロックンロールバンドとして活動を続けてきた。

 

 

 2015年2月、シーナさんが子宮頸がんのため、61歳で死去。しかし鮎川さんは、愛妻の遺志を継いでバンドを継続させてきた。

 

 シーナさんの告別式の2日後、鮎川さんと、長女の陽子さんは雑誌「女性自身」内の連載企画「シリーズ人間」でのインタビューで、“シナロケ”誕生について語っていた。

 

「シーナ&ロケッツというのは、シーナが自分で『私が歌う!』って決めたバンドなんです。僕が『君が歌え』とか『君、歌手になったらどう?』なんて言ったこともない。

 

 1978年4月、仕事にありつこうと思って東京に出てきた僕の後から、シーナが冷やかしで『私も来たよ』って、九州から出てきたんです。2人でタクシーに乗って、青山通りをちょうど赤坂に差しかかったあたりで、シーナが突然『私も私のレコードが作りたい。私の歌をレコードで聞いてみたい』って言ってきた。その瞬間、『シーナが歌うなら、俺はギターを弾く、そのために僕はこれから生きよう』って決めたんです。その日から、僕たちは最高に輝いた楽しい日々を続けてきました。シーナが亡くなるまでは……」(鮎川さん)

 

 そんな2人を長女・陽子さんは

 

「いつもエンジョイしている感じでしたね。2人が台所で歌ったりした曲がレコードになったこともありましたから。お父さんがギターを弾き出したら、お母さんがそれに合わせて歌い出し、曲ができちゃう感じで。いつも2人で一緒に過ごして、そのままライブでファンの前で演奏する。生活のすべてがロックでした」

 

と、見ていたという。

 

 シーナさんの最期を、鮎川さんはこう語っていた。

 

「俺は手をシーナの首の下に回して抱きしめてた。ずっと離さんかった。病室で流れていた『ROKKET RIDE』を聴きながら“今の俺とシーナはこれだ”“俺たちの愛は永遠だ”と、そんな思いがこみ上げてきた。その瞬間、もう一度抱きしめた。その曲が終わったら、『ユー・メイ・ドリーム』のイントロが始まって……シーナは静かに旅立ちました」

 

 最後に、鮎川さんは妻へこんな言葉を向けた。

 

「シーナとは44年、一緒にいましたけど、最高のパートナーやった。シーナに背中のネジをギュギュギュッと巻いてもらって、俺はネジ巻き人形みたいに踊ってた。シーナ、I LOVE YOU! 出会えて嬉しかった。フォーエバー、シーナ!」

 

 それから8年。2人は天国で再び、最高のロックンロールを奏でているだろう。

( SmartFLASH )

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