■「僕は本当にいい人と巡り会う運命」
だが、芸能界は甘くなかった。仕事がなく悩んでいた小堺は、勝新太郎さんが「勝アカデミー」を設立したと知り、すぐさま門を叩いた。
「岸田森さんが担任、森繁久彌さんや津川雅彦さんが講師をされるなどかなり豪華で貴重な時間を過ごしました。
もちろん俳優になりたかったのですが、やりたいからといって仕事があるわけではなく……。大学在学中にドラマに出演させていただいたのですが、なんと16回もNGを出してしまったんですよ。みんなは『何、この子?』状態。帰り道、才能がないことがつらすぎて泣いてしまいました」
そこからなぜか「どんな仕事も緊張から1回めは酷い目に遭う」ことが続いていった。
「僕の中のジンクスなんです。僕が調子乗りだから神様が守ってくれているんだと思います。調子に乗らないように最初にドンッて(笑)。デビューで大成功というのはないかも。でも、それでよかったんだと思います」
小堺の転機になったのは『欽ちゃんのどこまでやるの!』(1976~1986年、テレビ朝日)だ。所属事務所の先輩・関根勤と黒子に扮した「クロ子とグレ子」で注目を集めた。
「当時は関根さんとコントライブをやっていたんですよ。お客さんは3人くらいしかいないけど、僕らの楽しいと思うことをやっていて。その経験が生かされたのか、大将(萩本欽一)に呼ばれてテストをしたら大ウケ。それで次週から出ることになったんですが、そこからがキツかったです」
番組の収録で萩本からの要求は厳しかった。
「僕はあがり症でもあるのですが、いつも袖でガタガタ震えていました。うまくいったことはほとんどなかったです。ただ、大将は『オレはあがらないヤツは信用しないよ』って言ってくれて。この言葉は今も覚えています」
収録中の「震え」がなくなったのは、帯トーク番組『いただきます』(1984~1990年、フジテレビ)を始めてからだ。
「最初は本当に空回り。新聞にも “消えていただきます” と書かれていました。そんなとき、『ザ・トップテン』(1981~1986年、日本テレビ)でお世話になっていた堺正章さんから関根さん経由で『なんで小堺くんは一人で話しているの?』って言われたんです。そのとき、僕の中の水門が開きましたね。番組スタート前に大将から『オマエは一人で全部話しちゃうからピンの仕事はこないよ』と言われていたのも思い出して。もう『あぁ―っ』です。で、次の日から一人で話すのではなく、共演者の方たちの話を聞くというスタンスに変えました」
そのときに自分の持ち味やできることがわかったという。
「大将にはあがることを肯定してもらいましたが、僕があがっていたのはうぬぼれていたからなんです。どっかでよく見せたいと思っていて。それがなくなってから、いつもの自分でいられるようになりました。それを教えてくれる方たちがいることにも感謝しました。僕は本当にいい人と巡り会える運命なんです。知らないうちに神様が僕の人生にくれた付録みたいなモノです」
小堺は放送中のドラマ『女神〈テミス〉の教室~リーガル青春白書~』をはじめ、近ごろ芝居の仕事が多くなった。
「若いころできなかったお芝居をやらせていただいているのはおもしろいですね。じつは『それを僕がやるんですか?』という仕事のほうが意外と相性がいいんですよ。人まかせではないけど、人に課題をもらったほうがいいみたい。だから、これからも求められる人でありたいです」
こさかいかずき
1956年1月3日生まれ 千葉県出身 1984年放送開始の『いただきます』(フジテレビ)で司会に抜擢。その後、『ごきげんよう』と続き、約32年間お昼の顔として活躍。現在は、バラエティ番組に出演するほか、ドラマ『女神〈テミス〉の教室~リーガル青春白書~』(フジテレビ系)にも出演中。4月15日(土)にトークライブ『小堺一機とおしゃべりLIVE』の第6弾が開催される
【オステリア・ヴォーノ】
住所/東京都目黒区東山3-15-12 B1F
営業時間/11:30~14:00、17:00~23:00
定休日/火曜 ※土・日曜ランチは不定休
写真・伊東武志
ヘアメイク・村中サチエ