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初対面の中森明菜は「目も合わせず」『少女A』作詞家が語る「コロナ乗り越え40周年」昭和歌謡界“秘話”
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2023.05.09 16:15 最終更新日:2023.05.09 18:11
この数年、SNSを中心に若者たちの間で昭和歌謡曲がブームになっている。彼らの心をつかむ理由のひとつは、その「歌詞」だ。昭和歌謡曲の歌詞には“行間”が存在する。多様化した現代だからこそ、昭和歌謡曲が、聞く人の心に寄り添うのかもしれない。
「最高記録は、1カ月に42曲、書いたよ。でも5曲、ボツになった(笑)。予定とは違う歌手になった詞もあるね」
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と語るのは、まさに“行間”のある歌詞で人気を博した昭和のヒットメーカー、作詞家の売野雅勇(まさお)氏だ。チェッカーズの『涙のリクエスト』『ジュリアに傷心(ハートブレイク)』、郷ひろみの『2億4千万の瞳-エキゾチック・ジャパン-』、RATS&STARの『め組のひと』、矢沢永吉の『SOMEBODY’S NIGHT』などなど、これまで手がけた曲は膨大だ。
なかでも、中森明菜をブレイクさせた『少女A』も売野氏の書いたものだが、意外なことに、明菜とは1度しか会ったことがないという。
「それも、『少女A』がヒットしてだいぶたったころにね(笑)。僕は、とくにどうとも思っていなかったけど、昭和の時代だし、礼儀みたいなことをみんな重んじてたのかな。僕に会おうとしない明菜さんにディレクターが困ってたとは聞きました。ディレクターが『さすがにこれだけヒットして、ごあいさつもしないわけにはいかないだろう』って、ある日、アルバムをレコーディングしてるスタジオに呼ばれたんです。そのアルバムも、僕が3、4曲書いてたんだけど、行ってみたら、明菜さんは『こんにちは……』って、それだけ。目も合わせない」
そんな明菜の態度に立腹したのかと思いきや、売野氏には好印象だったという。
「いい奴っていう印象でした。シャイで、緊張から目を合わせられないって感じだったからね。明菜さんに会ったのは、その1度だけ。彼女は、当時から海外のアーティストみたいな、ちょっと遠いところにいる感じがあったんだよ。また明菜さんに会って話をしてみたいな。もちろん、曲も書きたいよね。
もし『少女A』をほかの人が歌っていたら、その人が中森明菜のような存在になっていたかもしれないと思うこともあるよ。当時、“ツッパリ”のイメージで売り出していた、とある女性アイドル・Mの友だちに『彼女に歌わせたらよかったのに』って言われたけど、曲のめぐり合わせってものがあるんですよ。明菜さんは、彼女の魅力や歌唱力はもちろんだけど、そういう運を持ってたんだと思いますね。
チェッカーズがヒットしたお祝いで、作曲家の芹澤廣明さんと香港に旅行に行った際、僕が書いた明菜さんの『禁区』が流れていてね。彼女のおかげで、僕の詞が異国の地でも流れていることに驚いたし、なんともいえないうれしいに気持ちになりました」
現在、作詞活動40周年を記念し『売野雅勇 作詞活動40周年記念 オフィシャル・プロジェクト』が始動している売野氏。複数のレコード会社からコンピレーションアルバムの発売が予定され、7月15日には、東京国際フォーラムで40周年記念コンサート『MIND CIRCUS SPECIAL SHOW「それでも、世界は、美しい」』が開催予定だ。明菜のサプライズ出演も期待するところだが……。
「残念ながら、それはありません。僕のコンサートにオファーしてもいませんし、業界のなかでも、誰も明菜さんにたどり着ける人はいないというのは、周知の事実ですよね」
この記念コンサート、じつは“追悼コンサート”になる可能性があった。
■追悼コンサートを覚悟
「正確には、2023年で作詞を始めて42年になるんです。40周年の記念コンサートは、本来、2022年におこなう予定でした。僕の誕生日は2月22日だし、ちょうどいいんじゃないかってことで、開催準備に向けて連日、会議をしてました。
ところが、僕が新型コロナウイルスに感染してしまってね。それも、病院で『中等症』と診断され、即、入院するほどの病状でした。20日間ほど入院し、治療を受けていましたよ」
その症状は、ECMOが必要になるほど悪化したという。
「酸素濃度が基準値となる94まで上がるのを待っていたんですが、なかなか上がりませんでした。医師は深刻な顔をしていましたが、僕は入院前の、6日間の待機期間のほうがつらかったです。喉の痛みや咳、発熱など、本当にひどかったのでね。医師には『どこまで治療しますか?』と聞かれ、最悪、ECOMOも利用しようという相談もしました。最終的に、高濃度酸素の吸入をすることになり、病室も変え、2日間かけて治療の準備をしていたら、その間に酸素濃度が戻ったんです。
事務所では、追悼コンサートになるんじゃないかって、あわててたらしいから、回復してみんなホッとしてましたよ(笑)」
退院時には8kg以上も体重が落ちていた。
「体力もかなり落ちていました。でも、せっかくやせたのだから、体を作ろうと思い、筋トレを始めました。おかげで、コロナに感染する前より健康になっていますよ。スタイルがよくなったでしょ?(笑)」
現在はコロナを乗り越え、コンサートに向けて、多忙な日々を送っている。コンサートのタイトル「それでも、世界は、美しい」には多くの思いを込めているという。
■「それでも、世界は、美しい」に込めた思い
「日本だけじゃなく世界を見ても、戦争や事件、悲しいできごとが次々と起きて、政治もひどい。こんな世界で送る人生には、悲しいことやせつないことだらけだけど、愛も希望もあります。人生には、生きる意味も意義もあることをみんなに伝えたい。
若いころから一緒にやってきた人たちや支えてくれた人たちが、だんだんといなくなって寂しいけど、みんなで作ってきた歌は、引き継がれていって、消えることはないかなと思っています」
実際、仕事でもプライベートでも縁があり、深い信頼を寄せていたアーティストが2人、天国へと旅立った。YMOの高橋幸宏さんと、坂本龍一さんだ。高橋幸宏さんは、2023年1月11日に誤嚥性肺炎のため死去した。
「高橋幸宏さんとは、YMOでデビューする前からのおつき合いでした。僕がまだ作詞をおこなう前、コピーライターと同時にファッション誌の編集長をやっていた時期がありました。そのときに高橋さんが、お兄さんと『Bricks』というブランドを手がけていて、僕の雑誌に出てくれたんです。
当時、高橋さんの会社に営業に行っても、緊張してあまり話せない僕に、高橋さんのお兄さんが『売野くん、営業っていうのはしゃべるのよ!』とアドバイスしてくれました(笑)。じつは、『少女A』がヒットしたとき、高橋さんがとても喜んでくれてね。当時は、歌謡曲はアーティストから見下されている雰囲気があったんだけど、高橋さんが自分のことのように喜んでくれたのが、僕もすごくうれしかったですね」
一方、坂本龍一さんは、2023年3月28日に死去した。
「坂本さんとは、中谷美紀さんのアルバムを一緒に作りましたね。いまでも思い出すのは、『mind cicus』という曲ですよ。先に坂本さんのメロディができていたので、作詞をするために赤坂のキャピトル東急ホテル(当時)に缶詰になって作っていたんです。でも、1週間たってもいい言葉が浮かばない。次の1週間も、また浮かばない。ある日、食事に行こうと思って10階の部屋から出て、エレベーターに乗ったんです。そこのエレベーターの『チン』って音で、ハッと浮かんだんだよね。『悲しい世界を浄めるように 街角で微笑って』ってフレーズが。そこからは、スラスラと歌詞が浮かびました。あの曲は、坂本さんとだからできた曲だと思います。
35周年のときの記念コンサートは、『Fujiyama Paradise Tour「天国より野蛮」』というタイトルでした。『天国より野蛮』は、坂本さんと作った曲です。40周年の今回は、『天国より野蛮』の歌詞に『天国より野蛮なのに 世界はときどき美しい』という歌詞があり、そこからとっているんですよ」
天国から、坂本さんも聞きにきてくれるに違いない。
( SmartFLASH )