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6年連続『NHK紅白歌合戦』出場へ「純烈」酒井一圭、ムード歌謡で勝負した理由「毎晩、前川清さんが夢に出てきて…」

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2023.12.24 11:00 最終更新日:2023.12.24 11:00

6年連続『NHK紅白歌合戦』出場へ「純烈」酒井一圭、ムード歌謡で勝負した理由「毎晩、前川清さんが夢に出てきて…」

酒井一圭(純烈)

 

落語も楽しめる焼き肉店」として知られる「焼肉 八起」。1986年に「第1回八起寄席」が催され、これまで一門の垣根を越えて立川談志や三遊亭好楽ら人気者が店内の“高座”で話芸を披露してきた。開催日の「偶数月第3月曜日(定休日)」は落語の笑いに包まれる。

 

 酒井が初めてこの店を訪れたのは2007年。スタッフとして働いていた東京・新宿のライブハウス「ロフトプラスワン」の仲間に連れて来られた。

 

「美味しい焼き肉もそうですが、まずはパワフルな女将さんのファンになりました」

 

 

 それから間をおかず、かつて出演した戦隊ヒーロードラマのプロデューサーと再来店をするはず、だった。

 

「忘れもしません。4月13日金曜日です。その日、映画の撮影で飛び降りるシーンを演じたら右足を複雑脱臼亀裂骨折。入院しました。それでもプロデューサーは『酒井がそれほど美味しいと言うなら』と一人焼き肉を楽しんだんです。そうしたら女将さんがほかのお客さんに、『この方のお友達が骨折したので、色紙に励ましの言葉を書いてあげて』と言ってくださり、素直なお客さまたちがメッセージを寄せてくださいました」

 

 この骨折で入院したことが「純烈」結成へとつながるのだが、その前に「純烈以前」の酒井について聞いた。

 

■各劇団のエースを退けて“はっちゃく”に大抜擢

 

「小学1年生のころにテレビを観ていて『なんでこの子供たちは出演できるんだ。俺も出たい』と思うようになりました。親に聞いたら児童劇団に入ることをすすめられ、裕福な家ではなかったので月謝3千円の劇団に入りました。まわりは『泣くお芝居をして』と言われればすぐに泣ける子供たちばかり。『こりゃ、無理だ』としばらくしてから通わなくなりました」

 

 それでも劇団は、オーディションの話を持ってきた。少しずつCMにも出演できるようになった小学3年生のとき、ドラマ『逆転あばれはっちゃく』(1985年、テレビ朝日)の5代目はっちゃく役に選ばれた。

 

「オーディションはテレビで観たことがある各劇団のエース級ばかりでした。控室でちょっとした争いがあって、使い切りカイロの投げ合いになったんです。そうしたら中身が飛び出して僕の顔は真っ黒に。そのまま面接を受けたんですが、役のイメージに合ったのか、合格しました」

 

 半年間、はっちゃくを演じた酒井は「燃え尽き症候群」に襲われてしまう。

 

「当時の僕にとって『はっちゃく』は最高の場所でしたから、それ以降の目標が見出せなかったんです。やり切ったという思いもあったし。ほとんど学校にも通えませんでしたから、10歳の子供でしたが『普通の生活に戻らなかったら、とんでもない人間になってしまう』と思ったんです」

 

 酒井は芸能生活から遠ざかり、中学・高校へ進学した。しかし次第に「表現する」ことへの飢餓感が湧いてきた。

 

「簡単に戻れないことはわかっていましたので、まずは『自分がどれだけ通用するか試してみよう』と小さな劇団で一から勉強をしました。

 

 でも、僕の昔を知っている方は名前を見れば『あのときの?』とわかります。ありがたいことに実家にも来てくださり、お仕事の申し出をしてくださいました」

 

 1994年、酒井は映画『横浜ばっくれ隊』シリーズで芸能活動を再開。18歳だった。衣装合わせでは辺見えみり、バナナマン・日村勇紀、古坂大魔王らがいて、酒井は久しぶりの「空気」に嬉しくなった。そして『百獣戦隊ガオレンジャー』(’01年2月~’02年2月、テレビ朝日)の牛込草太郎(ガオブラック)役を射止めて全世代に名前が知られるようになった。

 

 このころ、酒井は映画やドラマのエンドロールを夢中で観ていた自分に気がつく。

 

「主演ではない役者さんやスタッフさんの名前、事務所などがわかると、作品ができるまでの『つながり』や『ヒットする理由』などが体系的にわかるんです。

 

 それがすごく興味深くて、『作る側』になりたいと思うようになりました」

 

 よく「酒井は歌い手というよりプロデューサーだ」と評される所以がここにあったのだ。酒井は2006年に「ロフトプラスワン」の裏方として働き始め、スタッフの食事から収支まで担当した。

 

「そして、足の骨折に至ります(笑)。病院のベッドで寝ながら、『もう32歳。アクション役も難しいだろうなあ』と思っていたら毎晩、歌手の前川清さんが夢に出てきて、直立不動で歌っていらしたんです。『夜のヒットスタジオ』を観ているようでした。どうして前川さんだったか? 僕は大の馬好きで馬主になるのが夢でした。芸能界にはどんな馬主がいるのかも調べていて、前川さんも馬主なのでそれが理由だと思います。

 

 だけど同じ馬主の小林薫さんでもなければ陣内孝則さんでもなく前川さん。絶妙ですよね。演歌・歌謡界に馬主が多い。僕は『そこに巨額の何かがあるはずだ』と思い、前川さんが『お前は歌謡曲をやれ』と言ってくださったように感じたんです」

 

 当時はテレビの歌番組も激減して、歌謡曲人気は下火になっていた。酒井に勝算はあったのだろうか。

 

「もちろんです。僕はずっと、団塊の世代は紙オムツなど今まで世の中にないものを享受してきたけど、晩年になり最後に聴く音楽は新しい曲ではなく若かったころに聴いたムード歌謡と考えていました。ムード歌謡は大手事務所と競合しません。つぶされる心配もありませんでしたから」

 

■わらしべ長者でつないで念願の“紅白”へ

 

 前川の「ご託宣」を胸に、酒井は声にほれ込んでいた白川裕二郎に声をかけ、小田井涼平、後上翔太らを誘った。口説き文句は「紅白歌合戦に出て、親孝行をしよう」だった。しかし結成したものの仕事はなく、メンバーはアルバイトをしてしのいだ。酒井も中央自動車道の国立府中インターチェンジ近くにある24時間営業の定食店「南京亭」で汗を流した。

 

「そんなとき、知り合いの歯医者さんがキャバレー『ハリウッド』の福富太郎さんを紹介してくださったんです。それがご縁で月に1回ですがステージに立たせてくださり、さらに福富さんが『頑張ってるグループがいるんだよ』とテリー伊藤さんにつないでくださいました。テリーさんは『お前らバカやってんな、だけどめちゃくちゃおもしろいよ』とラジオ番組に呼んでくださったんです」

 

 酒井は「僕たちはわらしべ長者です」と笑うが、これをきっかけに次々と出演の声がかかるようになった。

 

「密着番組を観ていた健康センターのオーナーさんとステージのキャスティング担当さんが同時に『一度、純烈をステージに呼んでみようか』となり、『湯乃泉 東名厚木健康センター』に出演させていただきました。最初はパラパラだったお客さんがだんだん増えていき、とうとう立ち見をしていただくほどになり、系列の健康センターでも歌わせていただくことができました」

 

 こうして「スーパー銭湯のアイドル」になった純烈。結成から5年がたっていた。

 

 2023年12月31日、純烈は6年連続で『NHK紅白歌合戦』に出場する。

 

「初めて出場したときは、出場の知らせのときにドッキリを仕掛けられたんですよね。みんな泣いていました。白川なんて大号泣。僕は嬉しいというよりホッとしました。メンバーには家族がいるし、ずっと困窮生活をさせていましたから。結成当初から紅白出場に確信はありましたけど、やっぱり……ね。

 

 2022年、ダチョウ倶楽部さんとジョイントさせていただき有吉弘行さんと『白い雲のように』を歌わせていただきましたが、2023年は有吉さんが白組の司会。その有吉さんが僕たち純烈を紹介してくださるというのも楽しみです」

 

 最後に2024年の目標を聞いた。すると酒井は「白川と岩永(洋昭)を大河ドラマに出演させること」と即答した。

 

 なるほど、確かにプロデューサーだ。

 

さかいかずよし
1975年6月20日生まれ 大阪府出身 1985年、ドラマ『逆転あばれはっちゃく』(テレビ朝日)で主演。映画『横浜ばっくれ隊』(1994年)シリーズ、戦隊シリーズ『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001年、テレビ朝日)などに出演。2007年に「純烈」結成。2010年『涙の銀座線』でメジャーデビュー。2024年1月6~22日に大阪・新歌舞伎座で初の座長公演となる『新歌舞伎座開場65周年記念 新春 純烈公演』(第1部芝居、第2部コンサートの2本立て・全22公演)がおこなわれる。問合わせ先・予約「新歌舞伎座」

 

「焼肉 八起」
住所:神奈川県相模原市南区相模大野6-19-25 042-748-2611 営業時間:15:00~22:00(L.O.21:30)、日曜・祝日21:30まで(L.O.21:00) 定休日:月曜、火曜

 

写真・野澤亘伸

( 週刊FLASH 2024年1月2日・9日・16日合併号 )

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