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綾田俊樹、国民的 “おじいさん俳優”は「最近、やっと実年齢が追いついてきた。今は本物、昔には負けないよ」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2024.02.25 11:00 最終更新日:2024.02.25 11:00
人の多い下北沢駅を抜けて、5分ほど歩いた落ち着いた商店街にある「やきとり椿」。カウンターしかない店内で、コップのギリギリにまで注がれた焼酎を美味しそうに飲んでいるのは俳優・綾田俊樹。
「ここに来たら必ず焼酎。これが焼き鳥に合う。焼き鳥はどれも大きくて美味しいんだけど、レバーは特別かな」
先代の名物店主のころからの常連である彼は、娘を連れてきたことも。
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「まだ子供だったけど連れてきたら、煮込みを2杯も食べて。今でも煮込みを食べると、あの笑顔を思い出します。
ちなみに最近は柄本っちゃん(柄本明)も来ることがあるみたい。彼は僕と違ってお酒をほとんど飲まずに焼き鳥をサッと食べるいい客らしいけど(笑)」
綾田が演劇を始めるきっかけとなったのは、予備校生のころに従姉妹に連れていかれた劇団黒テントだった。
「観ると同世代の人たちがキラキラしていて。芝居自体は訳がわからなかったけど、やってみたいと思いました」
上京後、大学に通いながら串田和美の自由劇場(後のオンシアター自由劇場)の養成所に入り、研究生に。そこには柄本やベンガル、高田純次、岩松了らが所属していた。
「彼ら以外にも萩原流行、イッセー尾形らがいました。みんな個性的だったけど、高田さんは今の芸風からは考えられないくらい芝居になると真面目で。素晴らしかったです」
なかでも柄本とベンガルとは気が合い、毎日のように共に遊んでいた。
「僕の下北沢のアパートに来ては飲んでいました。2人とも僕がカギをかけて出かけると怒るんですよ。ある日、大学の女友達が数人、僕の部屋に泊まっていたんだけど、それを知らずに柄本っちゃんはいつものように物干し台をよじ登って2階の窓から侵入してきて……。女のコが驚いて大騒ぎ。だって今と違って当時の彼は、髪の毛もふさふさで怖い顔でしたから(笑)」
そして、3人で演劇の合間にコントをやるようになった。
「当時の自由劇場は即興芝居をまとめて作品にしていて、僕らがコントをするとおもしろがってくれる人が多く、いつの間にかやっていました」
1976年、柄本、ベンガル、綾田の “仲よし3人組” は、「劇団東京乾電池」を旗揚げする。
「名前の由来は、ディスクジョッキーをしていた友達の女のコ。当時食えなかったのを見かねた彼女がビアガーデンでの仕事をくれて。ただ出るとなると名前が必要となり、ディスクジョッキーのコの社長がいろいろ考えてくれた中にあったのが、東京乾電池。それを50年近く、まだ使っているの。よく名前の由来を聞かれるけど、なんか恥ずかしいよね」
観客の反応がすぐ返ってくるコントは、演じていて楽しかった。しだいに3人は、コメディにのめり込んでいく。
「やきとり椿の近くにあった神社で稽古をしていました。当時はお店に入ったことはなかったけど、隣の銭湯には寄ったなあ。稽古でつい声が大きくなり、近所の人に叱られたのもいい思い出です。
そういや、3人で同じテクノカットにしたこともあった。柄本っちゃんとベンガルはそういうのが好きなんですよ。僕は嫌々やらされて。でも、何をやっても楽しかったです」
俳優3人で立ち上げた劇団は、高田、岩松らが加わり、昼の人気番組『笑ってる場合ですよ!』(1980~1982年フジテレビ)のコーナーで時事コントを担当するまでになった。
「高田さんは一度自由劇場をやめて、宝石商の仕事をしていたんですよ。結婚をして子供もいたんだけど、やはり芝居をしたいということで入ってきて。その決意を聞いたとき、あの人には勝てないなと思いました。すごい人ですよ」
その後、個人としてほかの劇団や演劇、テレビや映画に呼ばれることが増えてくる。
「僕らはそれぞれ干渉しないんですよ。みんな好きなことを自由にやって、たまには(東京乾電池に)帰ってきて一緒にやる。その繰り返し。
もちろんグループだけど、基本はソロで、帰る場所があるという感じ。これは俳優だけで立ち上げた劇団ならではの考え方なのかも。だから仲も変わらず、50年近くも続いているのだと思います」