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川﨑麻世、生き別れた父、離婚……華やかな芸能人生の影「普通で平和な家庭にあこがれる。ずっと怯えて生活していたから」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2024.04.14 11:00 最終更新日:2024.04.14 11:00
「鮨好きです。3日連続で夜は鮨ということもあります」
川﨑麻世のブログは、なるほど鮨に関する記事で埋め尽くされていた。
「芸能界に入って初めて行った鮨屋は六本木の芋洗坂にある店で、当時所属していた事務所の副社長に連れて行っていただきました。カッコいい大人のお客さんばかりで、『僕もあんな大人になりたい』と思い、そのあこがれを今も追い求めて鮨屋ののれんをくぐっているのかもしれません」
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この日、訪れたのは東京・築地の「秀徳本店 恵」。界隈に系列6店舗を構える人気店だ。川﨑は10年ほど前から通っているという。
「たまたま入ったお店ですが、板前さんが中学の同級生だったんです。思い出話で盛り上がり、それからちょくちょく寄らせていただいています。
板前さんとカウンターに座るお客さんは、舞台で演じる役者と観客の関係に似ていると思っています。板前さんはネタ、役者は演技でお客さんに感動していただきますが、その仕事ぶりによっては感動があったり、なかったりします。こちらの板前さんの仕事にはいつも感動させられるので、味を楽しみながら役者として気持ちが引き締まるんです」
たのきんトリオの登場でミュージカルに転身
川﨑が芸能界との接点を持ったのは12歳のころだった。
「芸能界にあこがれみたいなものはありましたが、芸能人になりたいといった気持ちはありませんでした。興味本位で、当時人気番組だった『プリン&キャッシーのテレビ!テレビ!』(1973~1975年、よみうりテレビ)の素人参加コーナー『パクパクコンテスト』に自分で応募。西城秀樹さんの振りまねでグランドチャンピオンになり、それがきっかけで芸能界入りしました」
翌年には不二家「ハートチョコレート」のCMが決まり、平尾昌晃音楽学校にも通い、歌も学んだ。すぐに人気は爆発。喫茶店だった実家の店内は、川﨑に会いたい女の子で毎日占拠されてしまうまでに。バレンタインデーにはチョコレートを持ったファンが駅から自宅まで長蛇の列を作った。
「自宅の2階からロープをつけたザルを下ろして、それにチョコを入れてもらいました」と川﨑は懐かしそうに語る。
上京して本格的に芸能活動を始め、1976年『カックラキン大放送!!』、1977年ドラマ『怪人二十面相』に次々と出演。
1977年には『ラブ・ショック』で歌手デビューも果たした。順風満帆のアイドル活動だったが、川﨑はミュージカル俳優へと舵を切る。
1984年、劇団四季の看板演目『CATS』のオーディションを受けて合格した。
「『たのきんトリオ』の登場が大きかったですね。彼らが爆発的に人気が出て『このままアイドルにしがみついていてもダメだ。次のステップに進もう』と決心したんです。ミュージカルの出演経験も多かったですし、(本格的ミュージカル俳優は)僕の目標でもありました。だけど、劇団四季では力量不足を痛感しました。僕が今までやってきたダンスとはレベルが違いました。それに、『CATS』の舞台は演出のため前方に向かって下がっているんです。(普通に)体を回転させると前に倒れてしまう。体力的にも大変でしたね。やめたくなったか? 筋肉痛になりながらも、休日前夜は六本木に飲みに行って発散しました(笑)」
『CATS』の舞台をまっとうした川﨑は「次はブロードウェイに挑戦だ」と単身渡米し、ミュージカル『スターライトエクスプレス』のオーディションを受けた。
「オーディションを受ける皆さんの歌声に圧倒され、『こんなに上手なのになぜ舞台に立てていないんだ』と戸惑いました。それでも必死にアピールしたら、演出家から『ロンドンでやるオーディションでもう一度、君を観たい』と言われました」
半年後、川﨑は稽古場から電車とバスを乗り継いで2時間の場所にアパートを借り、自炊をしながら2カ月に及ぶオーディションに参加。合格し、稽古に入った。1987、1988年の日本とオーストラリアの公演に、初の日本人キャストとして参加した。ここで、新たな出会いがあった。
「五代目坂東玉三郎さんが舞台を観てくださっていて、劇場でお会いしたんです。それがご縁で、帰国するとすぐに坂東さんが演出された漫画が原作の『ガラスの仮面』の舞台に立たせていただきました」
こうしてキャリアを重ね、舞台、映画、テレビドラマなどで存在感を増していった川﨑は30歳になっていた。
「そのときなぜか、僕が1歳半のときに離婚した父に『会わなければ』という思いが湧き起こったんです。僕自身が結婚生活に苦しんでいたせいかもしれません」
川﨑は舞台を観に来てくれたことがある父方の叔母に連絡を取り、父の住所を聞いた。そこは病院だった。末期がんで入院していたのである。
「すでに言葉は話せない状況でした。ベッドに横たわっている父を抱きしめると、涙があふれて止まりませんでした。父も僕に会いたかったのかな。そうだったら、嬉しいですね。そして『僕の子供たちにはこんな悲しい思いをさせたくない。子供たちのために頑張ろう』と思い直したんです。
去年、僕は離婚しましたが、2人の子供はすでに成人したので、まあ、役目は果たせたのかな」
それから何年もたったある日、京都の撮影所でベテランスタッフが声をかけてきた。
「昔、君にそっくりの役者さんにとてもお世話になったんだよ。安住譲さんという名前なんだけど」
川﨑は「私の父です」と胸を張った。
今年、デビューして48年になる。
「あっという間でしたね。理想と考えている役者像は年々違っているんですけど、変わらないのは追い求めても届かないということ。まるでクルクルと回るおもちゃの回し車をこぐハムスターのようです。大好きな舞台も『昨日はうまくできたのに、今日はなんでできないんだ』の繰り返し。役者の間では『舞台は2日目に魔物がいる』と言われているんです。初日は緊張しているのでトラブルはありませんが、2日目には失敗することが多いんです。怖いですよね」
そして川﨑は、61歳という年齢を感じさせないルックスゆえの悩みも打ち明けた。
「このまま若いルックスでいいのか、年齢に合わせたイメージにしたほうがいいのか悩みました。まわりの方に聞くと、『年齢相応の役は今後もできます。だけど60歳を過ぎて若い役ができる俳優はあまりいません』と言われることが多くて、『なるほどな』と納得しているこのごろです。ありのままの姿で演じることも大切だと気づかされました。だから、これからも『川﨑麻世』を保ち続けます」
鮨も残り一貫になった。将来、新しいパートナーと過ごすことを考えているか聞いた。
「リラックスできる、普通の平和な家庭にはあこがれますね。自分の人生を振り返ると、ずっと何かに怯えていた生活だった気がしますから」
川﨑は取材中にたびたび「熟成」という言葉を使った。
「舞台は初日から日々、熟成させることで千穐楽を感動していただけますから」
今後は、どんな熟成を見せてくれるのか楽しみだ。
かわさきまよ
1963年3月1日生まれ 大阪府出身 1975年、『プリン&キャッシーのテレビ!テレビ!』(よみうりテレビ)の素人参加コーナーでグランドチャンピオンになり芸能界入り。1976年、バラエティ番組『カックラキン大放送!!』(日本テレビ)に出演。1977年、『怪人二十面相』(フジテレビ)でドラマ初主演。同年7月に『ラブ・ショック』で歌手デビュー。第10回新宿音楽祭、第7回東京音楽祭国内大会など各音楽祭で新人賞受賞。劇団四季ミュージカル『CATS』(1984年)が話題になり、『スターライトエクスプレス』(1987~1988年)では日本、オーストラリア公演に初の日本人キャストとして参加した
【秀徳本店 恵】
住所/東京都中央区築地6-26-7宮崎ビル1F
営業時間/11:00~15:00(L.O.14:30)、17:00~22:30(L.O.21:30)
定休日/無休
写真・野澤亘伸
スタイリスト・慶田盛麻実
衣装協力・Losguapos