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「フジテレビはよくなると思ったのに」日枝久氏 “同世代OB” が明かす「帝王」の変質…「中居正広トラブル」を引き起こしたイエスマン人事の実態

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記事投稿日:2025.02.11 20:30 最終更新日:2025.02.11 20:35
出典元: SmartFLASH
著者: 『FLASH』編集部
「フジテレビはよくなると思ったのに」日枝久氏 “同世代OB” が明かす「帝王」の変質…「中居正広トラブル」を引き起こしたイエスマン人事の実態

中居正広のトラブルに揺れるフジテレビ

 

 フジテレビの存続自体を揺るがしかねない、元「SMAP」中居正広と女性のトラブル。同社は否定しているが、会食のセッティングに幹部社員の関与が取り沙汰されている。

 

「この問題では、フジテレビの人権意識、ガバナンス、コンプライアンスに疑義が生じた結果、80社近くのスポンサーが離れ、約200億円の損失を招いたとみられています。

 

 1月27日の臨時取締役会では、港浩一社長と嘉納修治会長が責任を取り、同日付で辞任し、遠藤龍之介副会長も第三者委員会の報告書が出る3月末に辞任することをすでに表明しています。

 

 

 ところが、長年にわたりフジテレビを事実上支配してきた日枝久取締相談役は、現時点で辞任する意向を示していません。いまの企業風土は、日枝氏がトップとして君臨して以降、醸成されたものと内外から批判されていることで、日枝氏の責任、そして去就に注目が集まっています」(経済部記者)

 

 日枝氏は、1988年に同社代表取締役に就任。同社会長やフジ・メディア・ホールディングスの会長を歴任したあと、2017年に第一線から引き、取締役相談役に就任した。現在まで、36年間にわたり、日枝氏はフジテレビの役員を務めている。

 

 そうしたなか、本誌「SmartFLASH」は、日枝氏と同世代のフジテレビOB2人に話を聞いた。フジテレビ在籍時代はおもに報道畑を歩んだA氏と、おもに制作畑を歩んだB氏だ。

 

 2人のOBに「日枝氏の “罪” は?」と聞くと、そろって「人事だ」と答える。彼が “帝王” として、振りかざした人事権に問題があったというのだ。

 

 ただ、若かりしころから、日枝氏が横暴だったわけではないという。いかにして、日枝氏は巨大テレビ局の頂点に上り詰めたのかーー。

 

■労働組合結成に関わって編成局へ “左遷”

 

 日枝氏は、開局3年めの1961年にフジテレビに入社し、志望していた報道記者としてテレビマン人生をスタートした。

 

 1963年11月に発生し、列車脱線多重衝突で死者161人を出した「鶴見事故」の現場でのエピソードを明かすのはA氏だ。

 

「日枝さんが報道記者として、現場に駆けつけたときの話です。現場に寿司の弁当が差し入れられたのですが、それを見た日枝さんは『死体がゴロゴロしている現場でこんなもん食えるか』と言って、弁当を叩きつけたそうです」

 

 B氏も、日枝氏の意外な一面を振り返る。

 

「彼が報道部にいたころ、入社4~5年くらいまでは、東京・練馬のほうに会社に関連するテニスコートがあり、その近辺に住む会社の仲間うちで、土日にテニスをやっていたんです。日枝さんも一緒にプレーしていましたが、臆病なテニスでしたね」

 

 日枝氏は、入社6年めの1966年、労働組合結成に関わったことで、編成局へ “左遷” させられる。

 

「2代めの鹿内信隆(しかない・のぶたか)社長のときですね。“シンリュウ(信隆の音読み)” さんは、日経連(出身母体)のアンチ組合の旗頭だから、組合ができたときに、当時の部長以上の管理職を集めて『労働基準法違反に死刑はない。恐れることはない。とことん弾圧しろ』と、組合潰しの号令をかけていました。

 

 そんな時代でしたから、日枝さんも報道から切られ、編成に飛ばされたのですが、それが結果的に彼にとってはチャンスだったのかもしれません。

 

 その後も労組の書記長に就くと広報部へ飛ばされたり、営業部にいたこともありました。でも、多くの部署を経験したことで幅が広がり、後々につながった可能性はあります」(A氏)

 

■判断力と決断力に優れ、フジ再建を支えた

 

 1980年6月、信隆氏の長男である鹿内春雄氏が副社長に就任すると、日枝氏は42歳の若さで編成局長に抜擢された。

 

「日枝さんの大きなターニングポイントでした。当時の社長は元郵政省事務次官の浅野賢澄(よしずみ)氏で、いわば “お飾り社長” でした。

 

 浅野社長は、やたらと経費削減ばかり唱えるお役所気質の抜けない人だったこともあって、社内の雰囲気はけっして明るくなく、視聴率的にも落ち込んでいました。

 

 そこで、会長だった信隆氏は、フジテレビを再建させるためにニッポン放送副社長の春雄氏を送りこんで、実質的に春雄氏が舵取りをすることになった。

 

 日枝さんは春雄氏に抜擢されたという記事を見かけますが、正確に言うとこれは間違い。信隆氏が “春雄氏をサポートできる人材” を人事の幹部連中にはかったところ、日枝さんの名前があがった」(A氏)

 

 なぜ、日枝氏の名前が浮上したのか。

 

「日枝さんは優秀でした。仕事はできたし、当時は私も尊敬していました。判断力と決断力があり、親分肌みたいなところがありました。

 

 たとえば編成局時代ですが、番組に抗議が来た際、人権教育として勉強会に参加することがありました。既存のメディアはどこも同じように『学習』だと思って勉強会に参加したと思いますが、日枝さんは『いや、大変だよ』と言いながらも『現場はとりあえず番組作りに専念してくれ。おとは俺がやる』と、勉強会に積極的にコミットしていました。

 

 また、これは取締編成局長(1983年~)時代の話ですが、トラブルで抗議してきた相手の怒りがなかなか収まらないときがあった。

 

 私はある部署の管理職でしたが、局長マターに上げて、あちこちに声をかけていったら、日枝さんが『わかった、俺が行く。段取りをつけろ』と言い、みずから先方に謝りに行き、相手の怒りを収め、トラブルを解決したことがありました。そういうところは即断即決でなかなかの手腕でした」

 

■初の “生え抜き社長” に就任するも、まもなく独断人事が

 

 日枝氏はその後、1986年に常務取締役総合開発室担当、そして、1988年6月に50歳という若さで代表取締役社長に就任した。

 

「日枝さんが社長に就任した当初は、それまで外様が社長だったのが、はじめて “生え抜き社長” が出たこともあって、これでフジテレビはよくなると思いました」(A氏)

 

 1982年から1993年までの12年間連続で視聴率三冠王を達成し、フジテレビ黄金時代を築いた。

 

「フジテレビの黄金時代は、別に日枝さん一人の功績ではなく、どの制作の現場にも “我が道を行く侍” みたいな優秀な人間が多くいて、多士済々だったということです」(B氏)

 

 しかし、日枝氏が社長に就任して以降、独断人事による大きな弊害が生まれてきたという。

 

「今でもOBの集まりがあるのですが、みなさん言うことは同じですね。日枝さんは人事権を使って、自分のイエスマンばかり周りに集めて、編成、営業……制作でもあまり実績のない人間を局長クラスに据えるなど、フジテレビの要職に就けました。さらにその人たちも、自分の部下にイエスマンを集めるという状況になっている。

 

 企画力のある人間がほとんどいなくなったことがいちばん大きいでしょう。『笑っていいとも!』『オレたちひょうきん族』の横澤彪(たけし)プロデューサーはヒットメーカーでしたが、結局は日枝さんに切られてしまった。

 

 人事関連で優秀だった人も関連会社に追いやられた。その人は日枝さんとともにクーデターを起こし、1992年に創業一族の鹿内宏明氏を追い落した羽佐間重彰(はざま・しげあき)産経新聞社長(当時)の筆頭秘書をやっていた人でした。

 

 そういう人事権を行使して、自分の思うように全部周りを固めちゃったことが、フジテレビの低迷を招いた大きな理由だと、誰もが言いますし、私もそう思います。アクの強い人間とか日枝さんの手に負えない人間とかはみな排除された。横澤さんもそうです」(B氏)

 

 横澤氏は役員待遇編成局ゼネラルプロデューサーに就任するも、1995年に57歳でフジテレビを退社し、吉本興業に転職した。

 

 A氏も「日枝さんのいちばんの罪は人事です」と言い、こう続ける。

 

「能力のある人物を排除するんです。日枝さんは自分にとって危険な人物、つまり仕事のできる人、人望の厚い人などを少しずつ遠ざけた。自分の将来を脅かす恐れがある人材は遠ざけました。その最たる例は、やはり、横澤さん。彼は将来社長になるだろうと、現場では評価されていましたから。

 

 でも、彼はあれだけのヒットメーカーでありながら、一方で “正義漢” でしたから、なんでも遠慮なしにものを言うわけです。おそらく日枝さんは『こいつ危ねえな』とか『怖いな』と思ったんじゃないかという気がしますね。彼はお台場移転にも反対しましたから、日枝さんにとっては目の上のたんこぶだったのでしょう」

 

■口癖は「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

 

 中居のトラブルに関与した幹部社員は、港前社長と “懇意” だったとされている。港前社長も、日枝氏の写し鏡だったのではないか。

 

 B氏は遠藤龍之介副会長の人事についてもこう話す。

 

「遠藤副会長は、番組を作って当てたとか、そういうテレビ局の制作現場の実績は何もないんです。その男が社長(2019~2021年)をやったりしてね。彼を重用したのも日枝さんです」

 

 かつて日枝氏を尊敬していたと語るA氏は、こう話す。

 

「それこそ、若いころの日枝さんのことはそれなりに評価していましたし、尊敬もしていました。でもね、まさかこんなことになっちゃうとは、残念ですよね。

 

 せっかく一緒にフジテレビの黄金期を担った一員として、これでフジテレビがズタボロになってしまうとしたら、本当に痛恨の極みです。

 

 日枝さんが編成局時代、口癖のように言っていたことわざは『実るほど頭を垂れる稲穂かな』です。『人はこうあるべきだよな』とよく言っていたのに、あのころの日枝さんはどこに行っちゃったのかなと。

 

 社長になってからは『俺がいないとフジテレビはもたない』とあちこちで言っていました。自分がいないとフジテレビはダメになるという思い込みがあったのかもしれません」

 

 OBの2人が指摘する日枝氏の人事について、前出の経済部記者はこう話す。

 

「清水賢治新社長は、2月10日、記者団に『人事の透明性はきちんと打ち出して説明できるものにしないといけない』などと話し、人事の透明性が大事だという認識を示しました。

 

 これまでの日枝氏の人事面での影響については『かなりあるだろうなとは思うが、私自身はあまり感じたことはない』とも述べています。

 

 ただ、『かなり』という推察が入っている時点で、日枝人事の弊害について、なにかを感じ取っているのでしょう。第三者委員会が、日枝氏による人事権の行使によるフジテレビ支配の構造を見逃す可能性は低いのではないでしょうか」

 

 じわりじわりと追い込まれていく日枝氏は、いまどのように “フジテレビ人生” を振り返っているのか。

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