エンタメ・アイドルエンタメ・アイドル

小椋佳(81)“最高のミュージカル” の完成目指し、いまもピアノを習う日々「コーラとたばこ三昧でも声は出るからね!」

エンタメ・アイドル
記事投稿日:2025.02.23 06:00 最終更新日:2025.02.23 06:00
出典元: 週刊FLASH 2025年3月4日号
著者: 『FLASH』編集部
小椋佳(81)“最高のミュージカル” の完成目指し、いまもピアノを習う日々「コーラとたばこ三昧でも声は出るからね!」

「運動なんてほとんどしない」とタバコをプカリ(写真・長谷川 新)

 

 社会の第一線で活躍しながら、誰もが避けられない体の変化を迎える50代。エリート銀行員の職を捨て充実した日々を送っていた人気歌手にも、57歳で異変が――。

 

 慣れた手つきで自ら淹れたドリップコーヒーに、山盛り3杯の砂糖を入れると、ゆっくりとかき混ぜた。

 

「いまもコーラは一日1リットル、たばこはセブンスターを一日40本。運動なんてほとんどしないし、生活は昼夜逆転です。寝るのは朝の6時とか7時ですから、だらしない生活ですよね」

 

 シンガー・ソングライターの小椋佳(おぐらけい・81)は、そう言って笑った。事務所の社長を務める長男の神田知秀さんが、そっと教えてくれた。

 

「胃を取って食べられないぶん、砂糖でカロリーをとってるところがあるんですよ」

 

 

 小椋は東京大学法学部卒業後、日本勧業銀行(現みずほ銀行)在職中の1971年、アルバム『青春~砂漠の少年~』でデビュー。『シクラメンのかほり』(布施明)、『俺たちの旅』(中村雅俊)、『愛燦燦(あいさんさん)』(美空ひばり)、『夢芝居』(梅沢富美男)などのヒット曲を世に送り出し、柔らかい高音の歌声でファンを魅了してきた。

 

「最近ふと思ったんですが、僕の歌まねをする人っていませんよね(笑)。味のある、そして丈夫な声に産んでくれた両親に感謝しています。喉にいいことなんて何ひとつしていないのに、喉の調子が悪くて歌えなかったことは、これまで一度もないんです」

 

 本店財務サービス部長を最後に、49歳で銀行を退職した後は、東大法学部に学士入学。文学部、同大学院にも進んだ。

 

 そんな小椋の人生に突然、大きな試練が訪れたのは、2001年。デビュー30周年コンサートを精力的におこなっていた57歳のときだった。

 

「銀行を辞めてから、忙しさにかまけてずっと健康診断を受けていませんでした。ある国立病院の総長のすすめで、軽い気持ちで人間ドックを受けたら、胃がんが見つかったんです」

 

 自覚症状は、まったくなかった。

 

「母が59歳で糖尿病で亡くなっていたこともあり、『いよいよ死ぬのかな』という思いが、頭をよぎりました。しかし、同時に不思議と冷静な気持ちでもありました。担当の先生方が口を揃えて、『早期がんだから、手術すれば大丈夫』と言ってくれたので、その言葉を信じるしかなかったですね」

 

 手術は8時間に及んだ。胃の4分の3を切除し、周囲のリンパ節、胆のう、副腎のひとつも摘出。術後は体に7本もの管が入り、身動きが取れない。腹部の痛みは耐えがたいものだった。

 

 20日後に退院してからも、待っていたのは、想像を絶する抗がん剤治療だった。

 

「本当に早期だったのかと思いますよ(笑)。気持ち悪いなんてものじゃなかった。医師に相談して結局、抗がん剤は中止しました。幸いなことに、その後も再発や転移はなかったんです」

 

 がんの寛解は喜ばしいことだったが、胃の大部分を失ったことで、小椋の生活に大きな変化があった。

 

「美味しいものを食べたいという欲求が、完全に消えてしまったんです。むしろ、食べること自体が苦しみになりました。ちょっと食べるだけでおなかが苦しくなるから、体重は減る一方。

 

 ただ、胃がんになる前は、僕にも糖尿病があったんですが、術後はすっかりよくなりました。がんがなければ、僕も母と同じように、糖尿病の合併症で死んでいたでしょうね」

 

 一時は400以上あった血糖値が正常化し、80kgを超えていた体重は20kg以上減った。そして、いまも “食べられない” 生活は続く。

 

「お酒は、日本酒を毎日飲んでいますが、食事は脂が多いものや、筋のあるものはダメ。貝は食べられるから、打ち上げで寿司屋に行っても、ホタテの刺身とかばかり食べています。家内も、相当工夫して料理を作ってくれています」

 

■13億円の私財を投じてスタジオ兼ホールを建設

 

 小椋が妻の佳穂里さんと出会ったのは、幼稚園児のころ。1968年に結婚してから、長年連れ添ってきた。

 

「ずっと一緒だったから、僕の歴史は家内に全部刻まれています。しかし、僕はがんを経験して、これまでいかに家内に甘えていたかを痛感しました。

 

 それで、退院して1カ月後には僕が家を出たんです。生活の変化が好きではない妻にはつらい思いをさせてしまいましたが、お互いに一人の場所と時間を持つことで、いい距離感と関係を築けたと思っています」

 

 週に数日、佳穂里さんが食事を持参する以外は、20年もの別居生活を続けた。そして2023年からは再び、夫婦は2人で暮らしている。

 

「ある日、些細なことで家内と喧嘩をした後、家内から『残り少ない日々は、同じ屋根の下で暮らしましょう』という手紙が来たんです。いまは絶対、家内がいないと生きていけないですね」

 

 2012年には、68歳で劇症肝炎を発症。生死の境をさまよった。70歳で「生前葬コンサート」を開催し、音楽活動に区切りをつけることを発表した。

 

「歌を作るのもね、昔は楽しい仕事だったのに、苦しいんですよ。一曲作るのに、昔は3時間あれば十分だったのに、最近は3日以上かかります。衰えを感じていますね」

 

 大病が直接のきっかけではなく、「体の中の内的エネルギーがなくなった」と当時、小椋は語っている。2021年にも、再び「芸能界引退」が報じられた。だが、100円ライターでセブンスターに火をつけた81歳は、今後についてこう煙に巻いた。

 

「いま、毎週ピアノを習っているんです。僕にとって人生で最高の遊びは、学ぶこと。楽器を演奏できないまま2000曲も作ってきて、やはり弾き語りで歌いたいなと思うようになったんです。幸い、声はまだ出ていますしね」

 

 取材は、13億円の私財を投じて東京・代々木に建設した、スタジオ兼ホールでおこなわれた。

 

「4月から、ここで春夏秋冬の一回ずつ、『小椋佳の四季報』と称するライブをやろうと思っているんです。もうひとつやりとげたいのは、本当に満足できるミュージカルを作ること。テーマは『勝海舟』と決めていて、脚本を書いてもらっているところです」

 

 50代、60代と大病に打ち克ち、前例のない音楽活動を50年以上も続けてきた。その “余生” でもまた、小椋佳にしか歌えない歌の用意があるようだ。

 

取材/文・吉澤恵理(医療ジャーナリスト)

続きを見る
12

今、あなたにおすすめの記事

エンタメ・アイドル一覧をもっと見る