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【芸歴30周年】原口あきまさ、日テレvs.フジ“ものまね戦争の修羅場”から“ご本人のイエローカード”まで徹底暴露!

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記事投稿日:2025.09.06 06:00 最終更新日:2025.09.06 07:34
出典元: SmartFLASH
著者: 『FLASH』編集部
【芸歴30周年】原口あきまさ、日テレvs.フジ“ものまね戦争の修羅場”から“ご本人のイエローカード”まで徹底暴露!

芸歴30周年を2024年に迎えた原口あきまさ

 

 いまや“ものまね”界のトップランナーともいえる原口あきまさ

 

 代名詞である明石家さんまのものまねは、もはや名人芸の域であり、ほかにも石橋貴明、加藤浩次、東野幸治など大物芸人のものまねも多数。自身のYouTubeチャンネルで検証、カウントしたものまねの数は、なんと200種類を誇る。

 

 

 そんな原口が、芸能生活30周年を2024年に迎え、「原口あきまさ30周年記念ライブ〜我夢謝裸〜」を故郷の福岡(9月27日)と大阪(10月12日)、東京(11月3日)で開催することを発表した。

 

 ここに至るまでの道のりと、現在のものまね界へ思いを徹底インタビューした。

 

 原口は1975年11月3日生まれの49歳。北九州市で育った学生時代から、将来の夢はブレることなく“お笑い芸人”だったという。

 

「高校時代は地元球団・福岡ダイエーホークス(当時)の外野スタンドに通い、応援団をやってました。同時期には地元のスターだった博多華丸・大吉さんのライブの追っかけみたいなこともしてましたね。芸人になりたくて華大さんに『福岡よしもと、おいでよ』って誘われたんですけど、そのときは東京に出ることが決まっていたんです」

 

 原口が選んだ進路は、東京アナウンス学院だった。

 

「親から、言われたんですよ。『おじいちゃんやおばあちゃんに“あきまさは芸人になるために東京に行く”なんて言えねえぞ』と。だから、どうしようかと調べて見つけたのが、東京アナウンス学院だったんです。

 

 祖父母は僕がアナウンサー学校に行ってると思ってたんですよ。で、さんまさんの歯つけてテレビに出だしたころに、祖父母が『いろんな仕事があるんだね、アナウンサーって』って言い出して(笑)。それから2、3年経ってからかな。『いつ、ニュース読むの?』って再び聞かれました」

 

 東京アナウンス学院では、U-turnの土田晃之が先輩。1期下にはピン芸人のはなわがいたという。

 

「1994年の入学だと思うんですが、僕らの時代は演劇科というくくりで、授業で“お笑いコース”を選択していたんです。1個下のはなわの代からコメディクラスができたんですよ。僕は最初からネタがやりたかったので、コンビで漫才やコントをやってました。講師の方がケイダッシュステージでバラエティの部署を立ち上げるのにかかわっていましたので、いまの事務所に誘われました。ひとりで行くの嫌なんで、はなわを引き連れていきましたね(笑)」

 

 すんなりと芸能事務所に所属はできたが、やはりお笑いの世界は厳しかった。

 

「当時はいろいろなコンビを組んでたんですけど、『ラ☆パニック』というコンビでデビューしました。僕はずっとツッコミで、ネタも書いてました。でも、深夜のネタ番組に1、2回出させていただいたくらいで、1998年に解散。ものまねをするようになったのは、ピンになってからですね」

 

 ピンで試行錯誤した結果、“ひとりものまねコント”のようなネタを作って小さなライブに出ていた原口。

 

「オーディションにはまったく引っかからないし、『何やってんだか、まったくわかんねえよ』とお客さんに野次られることもしょっちゅう。当時、“ものまね”といえば、メドレーなんかを歌う“歌まね”だったんですよ。ふだんの喋り方をまねするスタイルは注目されていませんでした。でも、僕は松村邦洋さんの喋りものまねがすごいと思っていたので、いろいろネタを作って挑戦していました」

 

 このころに、原口の運命を変える“無茶振り”を経験することになる。

 

「ものまね番組のオーディションで、とんねるずさんの楽屋訪問のものまねをしたんですよ。当時、スキャットマン・ジョンが流行ってたので、とんねるずさんの楽屋に板東英二さんがやってきて、『ぴーぱぱぱらぽ♪』と歌うのを、タカさんがツッコむみたいな。

 

 そうしたら、僕がやってるレパートリーの人選は、ほかのものまねの人もやっているとテレビマンに全否定されたんです。『誰もやったことないようなものまねがほしい』と。それで、僕も若かったし、言われっぱなしで帰るのも嫌だなと思ったんで、『さんまさん、できます!』って言っちゃったんですよね。さんまさんのものまねの引き出しなんてほとんどないのに。

 

 そこで現場では『イヤ〜ッ』といってバタンと倒れて。起き上がって『イヤホーウ』とかいってまた倒れるというネタを1分くらいやったんですよ。『さんまさんの起き上がりこぼしです』と名づけて強引にネタにしました。そしたら作家さんが食いついてくれて。その後、自宅でさんまさんのメイクしてみたら、それも似ていたので、これはイケるとなったわけです。

 

 当時『恋のから騒ぎ』が流行っていたので、テーマを全部さんまさんのエピソードにして、『これ、だーれ? ……俺や!』という形のネタにして、無事出演が決まりました。当時は23歳か24歳くらいですね」

 

 無茶振りされて必死に絞り出した明石家さんまのものまね。原口も「これを極めていけば、もしかしたら俺も生き残れるかなと思った」という。そして、このものまねが大ブレイクすることになる。

 

「2000年にタモリさんのものまねをやるコージー冨田さんに出会い、番組が作り上げたユニットですけど、“コージー&原口”でお仕事をいただくようになったんです。あのときは人気がすごかったですよ。

 

 コージーさんが何かの学祭の出番前に『俺たち、KinKi Kidsみたいだな』って言い出したくらいですから(笑)。それくらいワーキャーだったんですよ。コージーさんは僕のちょうど9歳上なので、あのころで34とか35歳くらいですからね、おじさんなのにモテてました」

 

 1990年代から2000年初頭のテレビ業界は、ものまね番組の隆盛期。現場は無茶振りが横行する修羅の世界だったという。そして、日本テレビとフジテレビによる“ものまね戦争”の渦中でもあった。フジテレビは1985年に『爆笑!スターものまね王座決定戦』の放送を開始、“ものまね四天王”を軸にして高視聴率を連発した。

 

 一方、1994年に日本テレビは対抗するように大スターのコロッケを擁立し『ものまねバトル』を立ち上げた。ここから、局同士でものまね番組の視聴率を競い合う戦争が始まったのだった。『ものまねバトル』で活躍した原口も当然、巻き込まれた。

 

「ぶっちゃけ、最初はぜんぜん気づいてなかったんですよね。何でこんなバチバチなんだろうと不思議でした。そのときの僕は、ずっとものまね芸人として生きていく、と魂を売った状態です。でも、ものまねの特番って年に季節ごとの4回しかない。一局に絞られてしまうと、極端に出演する機会が減ってしまいますよね。でも局はなぜか囲い込みたがるんです。

 

 普通の芸人はどこの局でもネタ番組に出ているんだから、『ネタを変えりゃいいんじゃねえの』と考えていました。そういういろんな感情が湧き出てきて、僕も相当、日テレと戦いましたよ。でも、『ダメダメ』って言われて……」

 

 日テレの番組に出るものまね芸人は、フジに出るのは厳禁。フジ側も同様で、交流はまったくなかったという。

 

「そのころ、僕のさんまさんの歯は、日テレから持ち出し禁止だったんですよ(笑)。考えられないでしょ? 僕の歯型で取った歯なんですよ。僕しかつけられない歯を、局に保管しとくっていうんですから。金庫にぶち込まれてるんですよ、僕の武器が(笑)。フジに行くな、素手で戦えって言われても、そんなの無理だよって話ですよ。こっそり持っていっても、バレるんです。それでまた怒られる。その繰り返しでした。でも、ありがたいことに干されることはなかったですね。でも、最終的に僕が勝手に“局の首輪”を強引に引きちぎってやりましたよ(笑)。どこの局の番組でも勝手に出るようになりました」

 

 囲い込みから解き放たれた原口は、意外な場所でブレイクすることになる。

 

「ものまねではなく、原口あきまさというキャラでドッキリに引っかかったんです。『ロンドンハーツ』(テレビ朝日系)で人気だったハニートラップのドッキリ、通称“ブラックメール”です。さんまさんのものまねで売れたというより、ブラックメールで売れたと言ってくれる人も多いぐらいです。

 

 そこから『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京系)の出張企画のMCをやらせていただいたり……。芸人として、売れたらやりたいな、というお仕事を次々やらせてもらえているので、結果的によかったなとは思います。ものまねという道は遠回りにみえて、近道だったのかもしれないです」

 

 もともとはお笑い芸人になりたかった原口。そのためか、“笑い”よりも“クオリティ”ばかりを気にする、ものまね界への違和感を隠そうとしない。

 

「変わった世界なんですよ。正直、僕はものまね芸人さんは全体的に苦手な人が多いんです。たとえば『このものまねは、俺のだから他人はやっちゃいけない』とかね。いや、そもそもあなたのものじゃないでしょ? という。

 

 もともと芸人畑出身で、ゴルフ仲間である神奈月さんとか、花香よしあきくんとか、ミラクルひかるとか、その辺りはぜんぜん大丈夫なんですけど、何というか、自分を持ちすぎてる方が多いので。

 

 ありがちなのは、ものまねする相手と自分を同一視してしまうタイプですよ。憑依させるところまではいいけれど、そこから抜けられないタイプの方が多いんです。大部屋の楽屋に通されてるのに、入ってきたときに永ちゃん風に『どうも』みたいな。いやいや、普通にあいさつしましょうよっていう。なんなら長渕剛さんのものまねする人のマネージャーさんすら、なんか“ぽい”人だったりしますからね(笑)。サングラスかけてたりして。見てる分にはおもしろいですけど、普通の感覚の人が少ない世界です」

 

 やはり、ルーツが近いお笑い芸人のほうがつき合いやすいという原口。さらに、ものまね界では新たな変化が起こりつつあるという。

 

「いまはものまね界は、先祖返りのような歌マネブームなんです。しかも、より“本人”にどれだけ近いかが求められるんですね。ものまねというより、“そっくりさん”。だから、ものまねアーティストっていう新しい呼び名ができたくらいです。

 

 もちろん、僕はそれを否定するわけじゃないんですけど。ものまねの人たちって、芸人さんと絡んでイジられて笑いが生まれることってあるじゃないですか。それがおもしろいのに、その笑いの何がいいのか分からない、気づかない人が多いんですよ。若い子にはとくに多い気がしています。たとえば、“たむたむ”という河村隆一さんの歌マネでいま、バズってるコがいるんですけど、僕は彼がやる萩本欽一さんのものまねが大好きなんです。

 

 それで、好きな数字を言うと、彼が仮装大賞で出てきそうなタイトルをコールするという遊びを楽屋でやっているんですね。でも、彼は真面目な性格だから、フリの段階から緊張してる。たとえば『12番』て言えば、『12番、花火大会』みたいにすぐ言えばいいんですけど、彼は『12番、うーん……』って考えすぎちゃって、長いこと何も言わない(笑)。いや、そこはフリなんだから何でもいいんだよ、と。で、この“生真面目さ”がおもしろいと思って、ステージ上であえて振ってやってみたら、やっぱりウケたんです。こっちはもう大成功だなと思ってるんですけど、本人たちは『何であれがおもしろかったのか分かんない』って首を傾げてるんです。

 

 作り込まないとできない、瞬発力やアドリブ、無茶振りでその場の空気でおもしろくするっていうことを知らないんだなと思いましたね。むしろ、そういうその場の笑いは、お笑いじゃないと思ってるのか……僕が勝手に思ってるだけなんですけど、考え方が変わってきている気はします。僕は徹底的に“無茶振り人生”なんで(笑)」

 

 ものまねを真面目にやろうと思えばできる、しかしどうしてもフザケて笑わせたい。根っから“お笑い好き”が原口あきまさという男なのだ。

 

「たとえばキンタロー。とかうらやましいですもん。彼女はもう“自由枠”ですよね。何やってもいいし、ものまねの9割9分は美術さんに発注した小物っていうね(笑)。ピカチュウなんか、顔を黄色く塗っただけだもんなあ。でも、それでおもしろいんだからすごいですよねえ」

 

 笑いへの追求は、ときに“ものまねの対象”から注意を受けることもある。

 

「ものまねした人に本気で怒られたことはあんまりないんですけど、注意というか、イエローカード出されたことはありますよ。柳葉敏郎さんとかGACKTさんには出されてるんです。

 

 柳葉さんの舞台を見に行かせてもらったときに、楽屋あいさつ行かせてもらったんです。それで『ものまねさせていただいてます』って言ったら『いつも見てます。どんどんやってください』って、僕がやる室井さんの顔で言ってくれたんですよ。やっていいんですかってことで調子に乗って、ショートネタ番組で『トイレで踏ん張って踏ん張ってスッキリした瞬間の室井慎次』ってネタをやっちゃったんです。それをね、たまたま見られてた。で、局ですれ違った時に(室井さん風に)『お前、やり過ぎだぞ』って言われたんです(笑)。恐ろしくてそのまま、トイレに駆け込んで自分が室井さんみたいにな顔になってましたよ。

 

 GACKTさんは、深夜のものまね番組で“お試しバトル”という、完成してないけど試したいみたいなネタをやる企画で披露した内容がまずかった。ピアニカ吹きながら、顔真っ白に塗って、スケスケの服着てやっていたら、GACKTさんに『殴っていい?』と言われて(笑)。見た目もひどいし、ひどいピアニカ演奏ですから、そりゃ怒られますよね。

 

 でも“ご本人”に、『もうやるな』と言われたことはないですよ。コロッケさんもそうなんですけど、僕らは極力、ご本人に会わないように生きていますからね(笑)」

 

 苦手なはずのものまねの世界で、30年。手ごたえを感じつつあるという。

 

「ようやく、評価してくれる人が増えてきました(笑)。コージー&原口のときも、2001年に『ゴールデンアロー賞』を取ったのに、正規のコンビじゃないからという理由で、僕よりキャリアのあるコージーさんだけが受け取って、僕はもらえなかった。そこから『ええわ、どうにでもなれ』って暴れてたら、ここまで続けられて、褒めてくれる人も出てきました。本当にありがたいなあと思っています」

 

 30周年記念ライブも“事務所の無茶振り”で、1日2公演で3会場のハードスケジュールだという。苦笑しながらも、楽しみで仕方ないという。豪華なゲストも見どころだ。

 

「自分がどこで育ったか。基盤はやっぱりお笑い畑だなということで、芸人さんたちと絡めたらいいなと思ったんです。

 

 ものまねをやれる芸人さんたち、たとえば松村邦洋さんにはまず声をかけて、清水ミチコさんもあこがれの人なんでお願いして。江頭2:50さんもまさかでハマってくれて。Wエガチャンは望んでたことなんで、うれしいですよ。

 

 大阪公演では、プラス・マイナスの兼光くんも、解散してものまねにシフトチェンジした点で境遇が似てると考え、お願いしました。ロバートの秋山竜次くんは同郷だから、彼のパワーを借りたい、ネタに乗っかりたい。そんな感じでいろんなコラボができるんじゃないかな。

 

 それから、コージー&原口がやっぱり東京で見せられたらいいなと思ってます。コージーさんはいま、健康的にいろいろ問題を抱えているのですが、そこで奮闘しているコージーさんを見たら、逆にこっちから無茶振りしたくなったんです。だいぶ視力を落とされてるみたいですが、ポジティブに戦っているので、ちょっとでも力になれたらいいなと思ってますよ。コージーさんとは、とくにネタを作ろうとも思ってないんですよ。当時のまま、ふたりでできたらいい。本当に楽しみです」

 

 ものまねの世界で戦い続け、自分の世界を確立した原口あきまさ。これからも驚くような新しいものまね芸を見せてくれることだろう。

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