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ヨネスケ「落語家への道」格好良かったら野垂れ死んでもいい

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2019.01.24 11:00 最終更新日:2019.01.24 11:00

ヨネスケ「落語家への道」格好良かったら野垂れ死んでもいい

 

「愛人の子で父親がいなかったし、貧しかった。姉2人と兄の4人きょうだいだけど、すぐ上の兄とも9つ違う。お袋はじめみんな働いていて、1人っ子みたいなもん。

 

 20歳以上離れている上の姉さんが、小児麻痺だったから家にいて面倒見てくれて、読み書き算盤を教えてくれた」

 

 

 こう明かすのは、かつて『隣の晩ごはん』を30年にわたって続けた、落語家の「桂米助」こと、タレントのヨネスケである。ヨネスケが、落語家になるまでの人生を振り返る。

 

「子供のころ、お袋には『なんでうちには、お父さんいないの?』って聞かなかった。姉さんには何度か聞いたけど、星の上とか、いろんなことを言われた。

 

 高校生になって、学校に提出する戸籍謄本を見たときに、父親の名前がなくて初めて気がついた。そのことを子供心にも聞いちゃ失礼なんだというか、感じ取れていたのかもしれない。

 

 祭りのときでも、好きなものを買っていいよと言われても、必ず安いものを買った。貧乏なのはわかっていたから。いつも1人だったので、人が恋しかった。

 

 人の心を読むというか、その場の雰囲気を察知できたから、番組でも相手が本当に嫌がっているのかどうか、一瞬で判断できた。幼いころに培ったんだろうね。

 

 女を口説くときも、『ダメダメ』って素っ気なく言われたらあきらめたほうがいいけど、『ダメッダメッ』て少しでも声が鼻にかかったら、押してみるとかあるでしょう?」

 

 落語は子供のころから好きで、小学校の卒業文集に、大きくなったら落語家になりたいと書いた。高校時代に立川談志師匠の『現代落語論』を知り、それをずっと読んでいた。

 

「それは僕のバイブルというよりも、僕の世代の落語家にとってのバイブルになっていると思う。談志師匠が20代のときに書いたものだからすごい。授業中も読んでたら先生に取り上げられて、そのたびに買った。卒業式のときに先生が本を返してくれた。5冊あった。

 

 談志師匠と交遊があった、うちの2軒隣の小野満先生(1929年~2008年:ジャズベーシストで、『小野満とスイング・ビーバーズ』のバンドマスター)に、談志師匠の弟子になれないか相談した。小野先生と俺は遠い親戚で。そうしたら談志師匠が、『俺のとこよりいいだろう』と、桂米丸師匠を紹介してくれた」

 

 18歳のときに内弟子に入り、住み込みの身に。米丸師匠は当時42歳。今は93歳で、元気に高座に出ている。前座見習い、前座と、4、5年で2つ目になった。その間、家では庭掃除、雑巾がけ、窓拭きなどをした。前座は着流しだが、二ツ目になると羽織袴が着られるし、アパートも借りられるようになる。

 

「寄席にずっといなくても、出番が終われば帰れるし、自由に飲みにも行ける。嬉しかったねえ。そして二ツ目を10年やれば、今度は真打。1981年、33歳のときに真打になった」

 

 落語の世界はおおよそ、「前座」4年、「二ツ目」10年、合わせて14年で「真打」になる。昔は最後に高座に上がり、終わると舞台のろうそくの灯を消した(芯を打つ)ことから、真打と呼ばれた。落語家にとっては、ひとつの転機。『隣の晩ごはん』をやる4年前だ。

 

「落語家になりたかったので、道さえつけばその先は自分次第だと思ってた。米丸師匠から最初に、『芸は教えないよ。売れることを教えるから」と言われた。うちの師匠の考えは、芸は盗むものということ。

 

 米丸師匠の代わりに稽古をつけてくれたのが、2018年に亡くなった桂歌丸師匠。歌丸師匠は、古今亭今輔師匠の弟子で、米丸師匠の弟弟子。事情があって米丸師匠が預かってた。僕には兄弟子みたいなもので、その後も本当にお世話になった。

 

 いましている腕時計は、歌丸師匠の香典返しのカタログの中から選んだもの。時計なんて時間さえわかればいいんだけど、歌丸師匠の思い出なんで、いつもつけてる」

 

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