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尾崎豊の『15の夜』、仮タイトルは『無免許で』だった
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2019.04.27 22:55 最終更新日:2019.04.27 23:33
4月25日放送の『直撃!シンソウ坂上』(フジテレビ系列)で、坂上忍が尾崎豊さんのプロデューサーとして知られる須藤晃氏を訪ねて、27年前に亡くなった尾崎さんの知られざる一面に迫った。
尾崎さんが1983年に18歳でリリースしたデビュー曲『15の夜』は、中学校生活の実体験をもとに作られた。学校での頭髪検査で、尾崎さんの友人は髪を短くしたのに、先生から髪の毛を切られてしまう。この話を聞いた尾崎さんは激怒して、家出の計画を立てたという。
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だが、『15の夜』は、紆余曲折を経て生まれたものだったという。須藤氏は尾崎さんが少年時代から書きためていた「創作ノート」を公開。当初は『無免許で』というタイトルが予定されていた。須藤氏は「無免許でバイクを乗り回して、酒を飲んでみたいな。僕はこの詞ではダメと言ったんです。つまり、『大人はこの詞のどこに共感したらいいんだ?』って」とダメ出ししたという。
須藤氏は創作ノートにあった「自由になれた気がする」の一文に注目してアドバイス。そこを活かし、「『バイクを盗め』ということを歌っているわけではなく、『バイクを盗んだって自由になんかなれないんだよ』って。自由ってそんなものじゃないんだよ」と、尾崎さんが伝えたかったメッセージを代弁した。
1985年3月にリリースした2ndアルバム『回帰線』がオリコン1位を記録。19歳でトップミュージシャンとなるが、それから約10カ月後、人気絶頂のさなかに「無期限活動中止」を発表。
その理由を須藤氏は「彼が言っていたのは、『俺はすごく個人的なことを歌っているのに、何でみんなを扇動しているみたいに言われるのだろう』と。彼が出て行くと、両手を合わせて拝み倒すような雰囲気になっていたことに戸惑っていました。音楽をやっていることが楽しくなくなってきたんじゃないですか」と語った。
尾崎さんのバンドでドラムを担当していた吉浦芳一氏は、「19、20歳の年齢になって、『15の夜』をいつまでも歌うのは歌いづらいと言っていた」と本人が葛藤してたことを明かした。
尾崎さんは活動休止して、単身ニューヨークへ渡るが、半年で帰国。さらに1987年12月、覚せい剤取締法違反で逮捕される。
多くのファンを裏切った形になった尾崎さんは、人生でたった一度きりの歌番組への生出演を決意。それが1988年6月22日放送の『夜のヒットスタジオ』(同局系)で、「ご心配をおかけしました」と騒動を反省。「僕の素直な気持ちを曲にして、これからずっと歌っていきたいと思っています」と、贖罪と感謝の念を込めて拘置所の中で歌詞を書き上げた『太陽の破片』を熱唱した。
それから3カ月後、尾崎さんは東京ドームで行った復活ライブで大成功し、完全復活を果たした。
だが1992年4月25日、自宅近くで倒れているところを発見され、26歳の若さでこの世を去ってしまう。
以降も尾崎さんの人気は衰えることなく、1994年1月には『OH MY LITTLE GIRL』がドラマ『この世の果て』(同局系)の主題歌に起用され、ミリオンセラーとなった。
そんな同曲を、デビュー前の17歳の尾崎さんが歌う貴重なデモテープ音源を須藤氏が公開。その歌詞とメロディは一部が変わっており、当初はサビを「となりのLITTLE GIRL」と歌っていた。同曲にも助言していた須藤氏は「売れるとは思わなかったけど、特別な感じはしました」と見解を述べた。
坂上は「尾崎さんはカリスマなのか、成功者なのか、犠牲者なのか、何なんですかね?」と質問。すると須藤氏は「すべてが当てはまりますけど、いまだにこれだけ、みんなが興味を持ってくれる存在だから、それはよかったと思います」と今も尾崎さんの音楽が人々を魅了していると指摘した。
尾崎さんの長男・尾崎裕哉も歌手としてデビュー。初の単独フルオーケストラ公演が、自らの29歳の誕生日となる2018年7月24日と8月12日に開催された。同公演の音楽監督も務めた須藤氏はウェブ「Billboard Japan」にこう答えていた。
裕哉が29歳となったことに「最近の裕哉は “父親が生きなかった齢” を生きているんですね。花の中でも格別美しい花が枯れてしまって、25年以上が過ぎた。それでも神様って不思議なものでね…同じ種を持つ裕哉がまた花を咲かせる。尾崎さんを知らない世代も裕哉の存在に興味を惹かれて、今度は遡って父親にも興味を持つんだから不思議ですよね」
鮮烈なまでに心に突き刺さる名曲を残した尾崎さん。その魂は息子にも引き継がれて、さらに多くの人々を魅力していく。