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10回忌を迎えた「忌野清志郎」かつて本誌で改憲批判していた

エンタメ・アイドル 投稿日:2019.05.05 11:00FLASH編集部

10回忌を迎えた「忌野清志郎」かつて本誌で改憲批判していた

 

 5月2日、忌野清志郎の10回忌にともない執筆された「天声人語」が話題だ。今から50年前、清志郎の母による人生相談が朝日新聞に掲載されていたというのだ。

 

 当時清志郎は高校2年生で、TBSテレビ『ヤング720』に出演し、本格的なバンド活動を始めていたころだ。

 


 
「十八になる私の子供は、高校を卒業したら美術大学へはいる予定でしたが、最近では進学したくないと申します。お友達と三人で組んでギターをひき、自分で作詞、作曲したのをレコードに吹込んだり、あちらのホール、こちらの放送局と時々出演して多少は受けているようです。ギターのプロになるのだと申します。プロには簡単になれるものでしょうか。学校へまじめに行かせるにはどうしたらよろしいでしょうか」(『朝日新聞』1969年11月4日)



 回答者である映画監督の羽仁進は「十八歳というお子さんのことを、こうまでいちいち立ちいって心配されるのは、かえって甘やかしているということにならないでしょうか。



ギターなど才能を要し、しかも職業としては人気を要するものを一生の仕事としてえらぶには、お子さん自身不安があるにちがいありません。

 

好きな道で努力してみて、それがだめなら、先生や親の指示に従うとか、あるいは自立するとか、決断させてみるのも、ひとつの方法ではないかと思います」とコメント。



 羽仁進の母である羽仁説子も「ギターをやめろではなく、ギターにうちこんでゆくにはいざというときの経済的社会的バックをつくっておかなくては心配だから、とにかく大学だけは出ておいてとそれだけにしぼって、折りをみては親の希望をのべる」とアドバイスしていた。



 母は心配していたようだが、高校時代の清志郎は、破天荒というよりは、むしろ目立たない存在だった。かつての同級生は、かつて本誌に「おとなしい人。すごいシャイな人だったけど、ギターを持つと生き生きとしていた。でもホームルームでみんなの前でギターを披露したときは真っ赤になって、恥ずかしそうにしていた」と話している。



美術室によくこもっており、清志郎自身、「もしロックで飯が食えなかったら、絵描きになるしかなかったと思うね」と語っている。

 

清志郎の恩師であり、楽曲『ぼくの好きな先生』のモデルになった美術教師・小林晴雄さん(故人)が過去に本誌の取材にこう答えている。



「やはり僕ら、絵を描いたり音楽を演ったりする人間というのは、どうしても縛られることが嫌なんでしょう。栗原(忌野清志郎の本名)がいろんなものに束縛感を感じるように、私にとっても職員室は決して居心地のいい場所ではありませんでした。美術室にはひとりでいられたし、栗原もよく遊びにきてました」



1970年3月5日、清志郎は高校3年にして『宝くじは買わない』で東芝音工からデビューする。清志郎伝説はここから始まったのだ。

 

その後は1980年に『雨上がりの夜空に』『トランジスタ・ラジオ』、1982年に坂本龍一とコラボした『い・け・な・いルージュマジック』などヒットを連発し、黄金期を迎えていく。



「ラブ&ピース」を歌い続けた清志郎は、過去に本誌の取材で、憲法改正について語っている。その中では、安倍首相を批判する場面もあった。

 

「(戦争放棄は)画期的なことだと思うんですよ。アメリカ人なんかには理解できないだろうこの9条を削除していくのは、なんかつまんないよね。



小泉(純一郎元首相)になってから地方の切り捨てが激しい。俺が夏休みに遊びに行ってた鹿児島の遊園地もつぶれてたし(笑)。俺なんかが言っても説得力はないかもしれないけど、やっぱり『右寄りの政治家』にはモノ申したい。安倍晋三とか小泉とか、あのへんの輩ですよ。たいして俺と年も変わらないのにね」



 清志郎はこんな言葉を残している。

 

「ロックでメッセージを伝えるのはダサいなんて言ってる奴は、ロックをわかってないと思う」

 

 肉体は滅んでも、清志郎のロック魂は永遠なのだ。

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