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亡くなった金ピカ先生、本誌に語った夢は「まともな高校を…」

エンタメ・アイドル 投稿日:2019.09.27 09:00FLASH編集部

亡くなった金ピカ先生、本誌に語った夢は「まともな高校を…」

 

 9月25日、予備校の元英語講師で「金ピカ先生」と呼ばれていた佐藤忠志さんが、自宅で亡くなっていたことがわかった。68歳だった。

 

 全盛期の1980年代、代々木ゼミナールで、年収2億円以上の名物講師だった。派手な衣装と純金ロレックスやブレスレットに身を固め、リンカーン・コンチネンタルやBMWなど高級車を乗り回すことから、「金ピカ先生」という愛称がついた。教室で日本刀を振りかざすパフォーマンスも名物だった。

 

 

 金ピカスタイルは、大学時代から。佐藤さんは2007年、本誌取材に対し「私ね、好きな色が白黒赤金なんです。その4色でコーディネートしてたら、こんな感じに(笑)」と話していた。

 

 大学は慶応だったが、独特なファッションで「某暴力団の御曹司だ」などと噂をたてられたという。

 

 講師としての実力には定評があり、偏差値35あたりの生徒が一気に65以上にハネ上がる、といったことがザラにあったという。1986年には、執筆した『ズバリ!合格の英単語』が100万部を超える大ベストセラーとなった。

 

 1988年、代ゼミから東進ハイスクールへ移籍。代ゼミの最終講義「英語総合問題・最後の仁義なき戦い」には、400名を超す受講者が詰めかけ、教室は超満員。講義終了と同時に、先生のサインをお守りがわりにもらおうとする生徒たちが教務室になだれこんだという。

 

 佐藤さんは本誌に移籍のきっかけを語っている。

 

「一昨年の春、教務部から『若手講師に講義を見学させろ』という申し入れがあったのです。しかし、予備校講師というのは、それぞれ教え方のノウハウを持った者が教壇に立つべきだと思っていましたから、『それがわからない奴は教える資格がない。スパイのような真似はやめろ』と突っぱねたのです」(1988年2月23日号)

 

 この頃の佐藤さんは、講師だけでなく、テレビや雑誌などのメディアでも活躍した。1987年には、秋元康プロデュースの『1度きりだぜ人生は』という曲を出している。勢いのまま、1991年には、都内に8億円かけた新居を建てている。

 

 2009年には突如、鹿児島県・種子島の西之表市市長選に立候補するも、あえなく落選。その後、「金ピカ先生」をメディアで見かけることは減っていく。

 

 2017年頃、長年連れ添った妻が家を出たあたりから、徐々に生活が荒みだした。2018年7月5日の『スポーツ報知』によると、「最近ですか? 隠居です。朝からビール飲んでますよ。朝昼晩。いつ死んでもいいんですから。だって、やりたいこともないし、やることもないんだから。生きる屍ですよ」と語っていた。

 

 晩年は、生活保護を受けて暮らしていた。『週刊現代』(9月7日号)によれば、佐藤さんは取材に来た記者に対し、「電気代もガス代も払えなくてね。今年の5月から生活保護を受けていて、来週、保護費の7万8000円が入ってきたらそこから光熱費を払います。謝礼をもらうと保護を止められちゃうから……」と話し、取材謝礼は受け取らなかった。

 

 2007年、まだ「金ピカ」スタイルだった佐藤さんが、「将来の夢は」という本誌の質問に答えている。

 

「まともな高等学校をやってみたいですね。学校って、学業か芸術かスポーツのどれかができないと居場所がない。この三本柱の選択肢をなるべく増やしたいんです。生徒がハツラツとして、楽しくいられるような学校が理想です」

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