THE ALFEE
メンバー間の関係性、音楽性の変化、時代の流行――。あらゆる壁を越えなければ、グループが長年にわたって音楽活動を続けることはできない。
高見沢俊彦、坂崎幸之助、桜井賢による「アルフィー」は、これまでメンバーチェンジや活動休止を一度も経験することなく、毎年、新曲をリリースし、全国ツアーをおこなっている日本唯一のグループだ。
古希を迎えてもなお、活動を継続することができるのはなぜなのか? その秘密に迫る。
――グループが長く続いている秘訣を伺いたいと思います。3人とも音楽性が違った、と過去のインタビューで読みましたが、それでも一緒に始まったのは、なぜでしょうか?
高見沢 共通項の音楽がまったくなかったわけではないです。好みはバラバラでしたけど、アルフィーの特徴は3声のコーラスですから、それがこの3人で完成されたというか。よくある「バンドを作って、この日から頑張ろう!」とか、そういうのはなかったんですよね。自然に、ぬる〜っと、ゆる〜っと始まった。
坂崎 オリジナルメンバーは桜井だけですからね。そこに僕がぬるっと入って、高見沢もぬるっと入った。もともとそういうスタートだったから、「こういう音楽を目指してやろう」というのは最初からなかったんです。
高見沢 3人でコーラスができたのが大きかった。それぞれ聴いている音楽が違ったというだけですよね。
桜井 たとえばサイモン&ガーファンクルをコピーしているときも、2声のハーモニーじゃないですか。そこに坂崎が入って3声になり、高見沢も入って、そっちのほうがおもしろくなるんですよね。1人より2人、2人より3人のほうがコーラスは楽しいじゃないですか。昔から「こういうバンドになりたい」と思って出会ったわけじゃないから、どのようにでも成長していくんですよ。いろいろな影響を受け合って。
坂崎 それぞれの好きな音楽をそれぞれが認め合ってというか。3人とも当時の音楽を共有していて、そのなかでも、とくにハードロックが好きだとか、サイモン&ガーファンクルが好きだとか、違いはあったけども、ほかを聴いていなかったわけじゃないですからね。僕らの場合は、「じゃあ、それもやってみようか」となる。麻雀をやりながら、BGMでそういう音楽をかけながら、「これをやらない?」「やってみよう」と。だから、最初からポリシーがないんです(笑)。
――バンド内で揉めるのは、だいたい「どんな曲をやるのか?」だと思うのですが……。
坂崎 それは、強いリーダーがいるバンドだと思います。
桜井 こういう音楽をやりたいから、こういうベースやドラムがほしいって、メンバーを集めるわけでしょう? 僕らにはそんなの最初からないから(笑)。
坂崎 強いリーダーシップがある人は、そういう音楽を目指して、メンバーを探していくんだけど、(趣向が)少し変わってきたりすると、足並みが揃わなくなる。
桜井 うちらは、最初からないんだよね。
坂崎 ぬるっと始まって、誰かがひっぱっていくとかないし。
高見沢 ないですね。音楽好きの普通の学生でしたから。
坂崎 3人とも音楽が大好きで、人の曲が大好きで。
高見沢 それをコピーして3人で演奏してた。
坂崎 3人でよくライブも観に行ってたんですよ。だから、音楽性の違いっていっても、たいした違いじゃないんです。みなさんが思っているほどの音楽性の違いはないんです。
――プロデビューの際には、「これからはこういう音楽でいく」と考えるタイミングだったと思われますが、そのときはどうでしたか?
高見沢 コーラスの爽やかさっていうのかな、そういうのが認められてプロになっていくわけですけど、正直言って、プロ志向だったのは坂崎だけなんです。俺と桜井は「えー、無理じゃん?」みたいな。
坂崎 「大丈夫、やろうぜ」って。
高見沢 意外とデビューに対しては後ろ向きでしたね。
坂崎 高見沢は(グループに)ちょっと後から入ったので、余計に遠慮してた部分があるんだけど、桜井はまったく積極性がなかった(笑)。
――(デビューに)積極性がない?
桜井 なかったですね。時代がよかったんです。本来ならプロになる兆しが見えるような確固たるものがあって、みんなプロになっていくんでしょうけど。
坂崎 (そこに)音楽性があってね。
桜井 我々はそうじゃなくて、アマチュアのまんまで、プロになれちゃったんですよ。だから、そこからが大変だったんです。
高見沢 僕が本格的に曲を作り始めたのはプロになってからです。
坂崎 桜井も、ベースを始めたのはプロになってから。
桜井 こんな舐めた話はないですよ(笑)。
坂崎 レコードを出せるって言うんで、じゃあ、やろうよ、ぐらいな。
高見沢 思い出作りに1枚出そうと。
桜井 当時は、第2期のバンドブームだったんです。「ガロ」や「チューリップ」「かぐや姫」などが大ヒットを飛ばし、それに続いて出そうと。年間300〜400組もの若手グループが次々とデビューしていた時代。
坂崎 みんな同じようなバンドで、必ず、眼鏡とヒゲがいて男前がいて(笑)。そういうバンドばっかり。(メンバーを)スタッフが決めてたバンドもあったみたいですよ。
――その波に乗ることができたんですね。
坂崎 ただ、僕らは、言えるほどの音楽性もオリジナル曲もなかった。
桜井 そうだな。
坂崎 スタッフによって、太いレールが敷かれてたんで、乗っかるだけですよね。事務所は田辺エージェンシーという大手だし、レコード会社はビクターレコードで、音楽出版社もTBS系の日音。3大企業が、「こいつらをデビューさせよう」っていう感じだったのかな。
桜井 事務所の先輩に「ガロ」がいて。
坂崎 「ガロ」は『学生街の喫茶店』、「チューリップ」は『心の旅』、「かぐや姫」は『神田川』が出たあと。各レコード会社が新人をどんどん出して、バンドブームを作ろうとしていたんじゃないですか。その流れに乗っただけで。
桜井 乗り切れなかったけど(笑)。
坂崎 普通はプロになるとき、最低でも、オリジナル曲がアルバム3枚分くらいあって、やっとデビューなんですよね。僕らにはそういうのが全然なかった。
高見沢 ただギターと3声のコーラスがいけるっていう。3声のコーラスは珍しかったのかもしれないけど。
坂崎 そこで1回挫折したんで、そこからですよね。こりゃいかんと。みなさんがアマチュア時代にやることを、僕らはプロになってから。
――ビクターを離れてからですね。
坂崎 3年ですね。
高見沢 普通ならアマチュア時代にすることを、そこから始めた。今でいうインディーズのような活動ですね。かまやつひろしさんや研ナオコさんのバックバンドをやって、全国ツアーを回ったりしていました。当時は、いろいろな方のバックも務めましたよ。
坂崎 そうそう、田辺エージェンシーのタレントさんのバックはほとんどやりましたね。月々の給料をもらっていましたから、「これは働かなきゃ」って。
――社員と同じだったんですね。
桜井 そうですね。
坂崎 当時はまだ大学生なんで、お給料は小遣いのようなもの。みんな実家近くだったし。
桜井 給料はそんなに高くなかったけれど、俳優のみなさんは、俳優をやるためにバイトを何年も続ける人もいる世界じゃないですか。そのなかでは、恵まれているほうでした。雀の涙だけども、給料をもらっていたので、アルバイトをしなくて済みましたから。
――バックバンドといっても、他人の曲を演奏するためには技術が必要です。
高見沢 いろいろ、(技術が)上がりますよ。
坂崎 とくに、かまやつさんと(研)ナオコさんは、ステージングも影響を受けましたね。
高見沢 かまやつさんは、フォークとロックと両方できますから。アコースティックのときは僕らがバックをやって、ロックのときは違うバンドがやって。そういう大所帯で(ツアーを)回ってました。
坂崎 ナオコさんのときは、いわゆるリサイタルのような感じのステージで、“ナオコばあちゃん” という『カックラキン大放送!!』(日本テレビ系)のおばあちゃん役を演ったあとに、ドレス姿で『あばよ』とか『愚図』を歌うわけです。そういうのを観ながら、3人ともかなり勉強になりましたね。
――ちょっとしたお笑いみたいなのが……。
高見沢 ちょっとどころか、大爆笑のあとに『あばよ』ですからね。
――アルフィーのライブにもお笑いは欠かせませんね。
高見沢 欠かせないというより、もともと3人ともお笑い好きだったので、そういうことも含めて、ナオコさんのステージングは本当に勉強になりましたね。
坂崎 ナオコさんは、「堺正章さんのステージを観て勉強になった」って言ってましたけど、僕らも、笑わせてから曲を聴かせるというのが、そのころ身についたんだと思います。
――再デビュー前、ライブハウスですごく盛り上がっていたそうですが、そのころはオリジナル曲だったのでしょうか?
高見沢 試してましたね。ライブハウスでは、作った楽曲を演奏して、反応を見ながらやってたんですけど、いかんせん、毎回観にくる人が同じだったので、曲を変えなきゃいけなかった。ですから、修行の場、実験の場ではありましたね。
坂崎 実験だよね。
高見沢 どういう曲が受けるのかなぁと。ライブハウスは、友達にドラムをやってもらって、ロックンロールっぽいことも、フュージョン的なものもやったりして。あらゆる音楽に挑戦しました。
――ライブハウス時代は、もう一度、プロで再デビューするという気持ちで?
高見沢 そうですね。最初につまずいたので、次はそうならないように、自分たちの音楽性というものを固めていこうという修行の場でもありましたね。
桜井 ライブハウスで演奏しているころに、レコード会社の関係者の人がきてくれたんです。
高見沢 いくつかのレコード会社からお話をいただきましたが、一度懲りてますから、自分たちの意見が通るところ。オリジナル曲で方向性など主張できるレコード会社を選びました。
坂崎 当然、レコーディングは自分たちの演奏ですから、キャニオンレコードに移ってからは、自分たちの演奏で、アレンジで。アレンジャーは立てたりしましたが、基本的なものはこちら主導でしたね。
――ビクターでのデビュー曲『夏しぐれ』は、作詞・松本隆さんと作曲・筒美京平さんによる楽曲ですが、曲をいただいたとき、どう感じたのでしょうか?
坂崎 最初はびっくりしたよな。
高見沢 え? 本当に?って。
坂崎 その頃、お2人はゴールデンコンビじゃなくて、僕らで2作目くらいでした。松本さんは「はっぴいえんど」から大好きだったし、もちろん、京平さんのことは知ってました。
高見沢 すごい方々が作ってくれるんだって思いました。
坂崎 松本さんも、会うとね、「あのときは(ヒットしなくて)悪かったね」って言ってくれるけど、こちらが謝らなきゃいけない。「こちらの問題ですよ」って。『夏しぐれ』は、いい曲だったんですよね。
――キャニオンに移って最初の大きな出来事が、『メリーアン』の大ヒットですね。
坂崎 もう4年目で、動員は増えていたんですね。1981年の暮れには、3人だけで渋谷公会堂(現・LINE CUBE SHIBUYA)を満杯にしてました。3人のギター、ギター、ベースの形で。
高見沢 アンコールで(坂崎が)ドラム叩いて、自分もエレキを持ったりして。
坂崎 3人で渋公がいっぱいになって、翌年には野外(所沢航空記念公園)をやって。
――かなりの動員数ですね。
高見沢 だから、最終的に、ヒット曲が、と。
坂崎 ライブが盛り上がれば盛り上がるほど、「あとヒット曲があれば」って、何年も言われて。制作部(楽曲作り担当)の高見沢は、いちばん大変で。
高見沢 レコード会社からのプレッシャーが痩せる思いで、本当に痩せちゃいました(笑)。
坂崎 でも、ライブは盛り上がっていて、いい感じになってきたころでした。
高見沢 あのころ、アコースティックで演奏しているのに、あるとき急に、お客さんが総立ちになって、アンコールで(ステージ)前に押し寄せてくるようになったんです。アコースティックですよ? 何がきっかけかわからないんですけど、それに対応するための楽曲を作ろうと。バンド改革をして、ドラムとキーボードを入れて、ハードなサウンドを目指したんです。
坂崎 1982年からドラムを入れてバンドっぽくなってきたんですよね。高見沢が作る曲も、お客さんの熱狂に応えられるような楽曲を作ってきて。
高見沢 なんで熱狂するのかわからないけど、それに応えるような楽曲作りをしました。
――ドラムやキーボードがなくて、アコースティックの編成で盛り上がって、お客さんが前に出てくる、っていうことがあるんですね。
桜井 それはびっくりしました。高見沢がステージ前に出てっちゃってね(笑)。
高見沢 アコギなのに(笑)。
坂崎 ちょうどその後、エレアコが出てきて。生ギターにシールドをつけて動けるようになってきて、(アレンジャーの)井上鑑さんに、「高見沢はエレキを弾けばいいじゃん」って言われてましたね。
――エレアコに、エレキギターの弦を張って弾いてたそうですね。
桜井 そうそう、高見沢はエレアコのサウンドホールを埋めて、エフェクターをつないで。だから、ボディだけがアコースティック。音はエレキでした。だったらってことですよね。
坂崎 高見沢がエレキになってから、1982年からサポートにドラムとキーボードを入れて、野外コンサートも成功させましたから、バンド改革は成功しました。
高見沢 で、あとはヒット曲だなと。
――ヒットする曲というのは、何か違いがあるのでしょうか?
高見沢 う〜む、違いかぁ……そこはわからないですね。
坂崎 今でも『メリーアン』以前の曲も、けっこうライブでやりますし、全然、僕らのなかでは同じなんですよ。
高見沢 実は『メリーアン』は、アルバム用に作った楽曲で、けっこう間奏が長かったり、好きなように作った曲なんです。それまでは、「こういう楽曲がいいんじゃないか」と言われて作ったり、言われるままシングルを出したりしていたんですが、『メリーアン』だけは、自分のやりたいように作った曲だったので、ヒットしたとき「なんだ、結局、好きなように作ればいいんじゃん」って、やっと気がつきました。
坂崎 周りに船頭さんがいっぱいいたんです。
――こっちに行けば売れるよ、という。
桜井 だから、大変だったんですよ。
坂崎 「いま流行りはこれだ」とか。いろんな人がいろんなことを言ってきて。
高見沢 そのように作ると、「これいい! 絶対いい!」って言うんですけど、出してみると、そうでもない。スタッフもね、真剣に僕らのことを考えてくれた結果ですから、それはそれでいいんですけどね。やっぱり、曲の方向性は自分で決めないとダメですよね(笑)。
坂崎 僕らは(スタッフに)愛されていたんですよね。だから、なんとかヒットさせようと、スタッフも必死でした。
――『メリーアン』がヒットしてよかったことは?
桜井 ヒットが出たのは嬉しかったですよ。周りの人たちの見る目が変わって、給料が上がりました(笑)。
坂崎 顔が売れたことかな。街を歩いていて、指をさされるようになりました。
桜井 言われるんだよな。「高見沢さんですよね」って。
坂崎 「高見沢じゃねえよ」ってね。あと、すれ違いざまに『メリーアン』と言われたり(笑)。
桜井 それ、多かったな。
坂崎 だから、名刺ができたってことですね。僕らは、やってることはあまり変わらないんだけど、世間の見え方が圧倒的に変わった。それまでもいろんなテレビ番組に出てたんですよ。だけど、ヒット曲を持って、いわゆるベストテン番組に出たことは大きかったですね。
桜井 『メリーアン』で紅白(歌合戦)も出ましたからね。
高見沢 フォークからロックンロールまで、いろいろな楽曲を作りすぎちゃって、「アルフィーが売れない理由は、バラバラな音楽性だ」って言われていたんです。ところが『メリーアン』がヒットすると、「幅広い音楽性」に変わった(笑)。
――散らばっているのではなく、幅広い音楽性に変わる。
高見沢 『メリーアン』が名刺代わりになり、どんな音楽をやってもアルフィーになる。それはすごい救いになりましたね。それまでいろんな音楽を聴いてやってきたというのが、財産になってたんですね。
――いろんな船頭さんがいたけれど、どれを作ってもアルフィーになる。それが、幅広い音楽性と評価される。すべてがプラスに。
高見沢 無駄ではなかったということです。自分なりに、腑に落ちた部分ではありますね。
坂崎 真面目に、ちゃんと作ってきた。だから過去の曲も、いまだにライブでやっています。
桜井 高見沢がちゃんと曲を作ってきたから、『星空のディスタンス』が、40数年たっても若者に刺さるんですよね。
高見沢 久々に、一昨年、紅白歌合戦(NHK)に出て、左の桜井が唄い出したら「お前が歌うんかい!」って突っ込まれたけど(笑)。
――「一番左のベースが歌うんかい!」と、SNSで盛り上がっていました。ふつうは、センターの人がメインボーカルだと思いますからね。
高見沢 僕らにとっては、左の桜井が『星空のディスタンス』を歌うのは当たり前じゃないですか。俺たちもまだまだだなって思いましたね(笑)。
桜井 世代交代してますからね。
高見沢 ALFEEなんて、まだそんなもんですよ。
坂崎 世代は3、4年で変わりますから、やり続ける意味はありますね。
桜井 ライブツアーも同じことです。
坂崎 そういうこと!
写真・福田ヨシツグ
ヘアメイク・野原ゆかり
衣裳協力・kiryuyrik(高見沢)
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