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山下達郎も惚れた画力、鈴木英人40年の軌跡
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2020.09.29 16:00 最終更新日:2020.09.29 16:00
1980年代に、時を戻そう。雑誌『FM STATION』で番組をチェックし、お気に入りの楽曲をカセットテープに録音。雑誌の付録にあった、鈴木英人によるイラストのカセット・インデックスを切り離し、曲名を書き込み、棚にずらりと並べて悦に入る--。イラストで時代を彩った鈴木英人が、2020年で活動40周年を迎えた。
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高校時代、絵画部に所属し、サルバドール・ダリ、アンドレ・ブルトンなどのシュルレアリストに傾倒した鈴木は、卒業後、デザイン会社に就職した。
「27歳のころ、独立を考えました。一生、広告代理店の下請けで終わるのは嫌だと思ったんです。そこで、世界中の絵画、美術本を所蔵する図書館に、毎日のように通いました。
僕が模索していたのは、『誰も描いたことのないイラスト』。僕がどんな絵を描きたいか、ではなく、まだ誰も用いたことのない技法はなんなのか。まだ世の中にないものを、自分の手で作ることが最大の目的でした。
そして、2年ほどかけて辿り着いたのが、『マンガの技法でアメリカを描く』というスタイルでした」
アメリカの街の風景、看板、スポーツカー、サーフボード、ビーチ。誰もが、ひと目で鈴木のイラストだとわかる。
「マンガの技法とは、面に筆をのせるのではなくて、線で表現することです。色は、濁色・淡い色を使わない。青い空、白い雲、赤い車など、はっきりとした色を入れる。マンガは、そういう描き方ですね。
自分のスタイルが完成したとき、必ず当たると思いました。『類似品がないものはヒットする』という自信がありました」
デザイン会社から独立して、アメリカへ飛び立った。
「カナダ、サンフランシスコ、ロサンゼルス。現地の風景を写真に収めて、版画にしました。コカ・コーラの看板とかを見ると、震えるほど嬉しかったですね。
看板には、その国の文化があります。僕が意識したのは、ありのままの風景を描くこと。真ん中に電柱があっても、そのまま描くようにしていました」
30歳、転機が訪れる。鈴木の版画が、雑誌『イラストレーション』(玄光社)の編集長の目にとまり、作品が掲載された。
「すると、グラフィックデザイナーとして有名な亀倉雄策さんから、仕事の依頼があったんです。大手企業のテレビCM、ポスターなどに起用されて、まさに、とんとん拍子。当たるとは思っていましたが、亀倉さんと一緒に仕事ができるとは……」
1981年、雑誌『FM STATION』が創刊。鈴木は、7年間表紙のイラストを担当した。
「いまはパソコンで色をつけるけど、当時は、パントーンというフィルムの裏に糊(のり)がついているものを貼っていたんです。貼り絵ですね。とくに、カセット・インデックスの人気がすごかった。隔週刊でしたが、量は相当こなしました」
鈴木が初めてレコードジャケットを手がけたのは、山下達郎のアルバム『FOR YOU』(1982年)。『年鑑日本のイラストレーション』(講談社)を見た山下が、制作を依頼した。
「当時、東銀座にうちの事務所があって、そこに達郎さんが来てくれたんです。僕は最初、顔を見てもわからなかった(笑)。CMソングを歌っている人というのは知っていたけど、同じ人だとは思わなかったんです。
そして、『何を描いていただいてもけっこうです』と、オファーしてくださり、快諾しました。
『FOR YOU』のジャケットは、いつか描いてみたいと思っていた風景でした。建物は、電器店のイメージで、3日ほどで完成しました。この仕事は嬉しかったですね。40年のキャリアのなかでも、ステップアップのきっかけになりました」
アメリカ、ヨーロッパ、中国など、20カ国以上を訪れてきた。カリフォルニアのガーデナに家を買い、ハワイのワイキキに10年近く住んでいたこともある。この40年を振り返って、今、思うこととは?
「『ずっと描いていてよかったな』と思うことはありますが、人生は成り行き。40年やってこられたのは、人と同じことをやらないというスタンスを貫いたからです。そうすると、まわりから反発を受けることもありますが、言葉にしなければいい。不言実行です。黙ってやればいいんです」
次のページでは、鈴木の作品をテーマ別に厳選して、本人解説つきでご紹介する。