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渋沢栄一が明治時代に愛飲していた「エチオピア産のコーヒー」が令和の世に復活!

ライフ・マネー 投稿日:2021.02.25 15:30FLASH編集部

 

渋沢栄一が明治時代に愛飲していた「エチオピア産のコーヒー」が令和の世に復活!

「渋沢栄一 仏蘭西珈琲物語」の箱の中にはティーパック5袋が入っており、1箱1000円(税込み)

 

 渋沢栄一の生涯を描いたNHK大河ドラマ『青天を衝け』の放映開始にちなみ、彼がフランス滞在中に愛飲したコーヒーを現代によみがえらせ、「渋沢栄一 仏蘭西珈琲物語」の名称で、サザコーヒー(茨城県ひたちなか市・鈴木誉志男会長)が販売を始めた。

 

 渋沢は、日本の近代化に貢献した大実業家だ。彼は渡航先のフランスから帰国した1869年、フランスで学んだ資本主義経済や会社制度をもとに、日本で最初の株式会社である「商法会所」を設立したのを皮切りに、官営の「富岡製糸場」を設立。

 

 

 そして最初の銀行である「第一国立銀行」の設置に尽力して総監役に就任するなど、500以上もの企業や経済団体の設立及び育成に携わり、日本の資本主義経済の土台を築き上げた功労者だ。

 

 このほかにも彼は、断髪した最初の日本人であったり、住宅地・田園調布を開発。また帝国ホテル創業時には、初代会長として客のもてなし方を訓示し、それが現在も「渋沢精神」としてホテルの経営理念になっているなど、さまざまなエピソードを残している。

 

「数あるエピソードのひとつに、彼は明治初期の日本人としては珍しいコーヒーの愛飲家であり、コーヒー通であったという点も加えていいですね。

 

 彼がコーヒー通になったのは、パリ万博のため徳川昭武に随行し、フランスまでの長期の船旅や約2年間にわたる欧州生活で、フランス料理の味に親しんだからだと思います」(サザコーヒー・鈴木会長)

 

 徳川昭武は将軍・徳川慶喜の名代としてパリ万博に参加するため、1867年1月に横浜からフランスへ出航した。渋沢は、徳川家に仕える幕臣だった。渋沢は商才に長け、独特の金銭感覚を持っていることを慶喜に見込まれ、昭武の世話役もかねて渡仏したのだ。

 

 渋沢は渡仏5日前にフランス宣教師に招かれて初めて西洋料理を食べており、おそらく、そこでもコーヒーを飲んでいたに違いないが、「航西日記」の2月12日(乗船35日め)にコーヒーとの出会いを記している。

 

《10時に本格的な朝食となり、銀製のナイフ、フォーク、スプーンを用いて魚、牛肉、鶏肉などを食べた。食後カッフェという豆を煎じた湯に砂糖と牛乳を加えて飲み、胸中がすこぶるさわやかになった》

 

 フランス滞在中は日常的にコーヒーを飲んでいることが、昭武の記録からもわかっている。たとえば、こんな記述が残っている。

 

《二人は夕食後、一緒にコーヒーを飲みながら談笑する。コーヒーカップを片手にシェルブールの海岸を眺める。渋沢と部屋でコーヒーを飲んでいると、広場から音楽の演奏が聞こえてきた》

 

 鈴木会長はこのような文献から、2人が愛飲したコーヒーの品種は「モカ」と推定する。それというのは、当時のフランスは世界的なコーヒーの消費国であり、輸入されるコーヒー豆はエチオピア及びイエメン産のモカだったからだ。モカを焙煎したコーヒーには、砂糖とミルクが添えられていたというから、2人はカフェオレとして味わったと想像できる。

 

「サザコーヒー」の店内には、18世紀ごろの欧州で使用されていた、フライパン型や回転式の鉄製焙煎機が陳列されている。「渋沢栄一 仏蘭西珈琲物語」は、やや焙煎を深くしたフレンチローストに仕上げているのが特徴。そのためトロッとした舌ざわりに苦味と渋味を抑えた味わいになっている。

 

「当時はまだ、焙煎の専門業者がいなかったので、このような焙煎機を使い、各家庭で焼いていたものと思われます」(鈴木会長)

 

 サザコーヒーは、2004年には「徳川将軍珈琲」も売り出している。こちらは将軍慶喜が1867年、大阪城に各国公使を招待し、そのときに振舞ったとされるインドネシア産のマンデリンを使用したオランダ風のコーヒーを再現したものだ。

 

 同店が徳川家にちなんだコーヒー販売に乗り出したのは、鈴木会長が将軍慶喜のひ孫にあたる徳川慶朝氏(2017年没)と、親しく交流していたからだった。

 

 渋沢栄一も愛飲していたというエチオピア産モカを使用した「渋沢栄一 仏蘭西珈琲物語」を飲みながら、ふくいくたるコーヒーの香りと味、そして文明開化という新しい時代の息吹きに満ちた明治の気分をじっくり味わってみたいものだ。

 


取材&文・岡村青

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