ライフ・マネー
女性初のエベレスト登頂に成功…田部井淳子「私は主婦だから」の心意気/5月16日の話
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2021.05.16 06:00 最終更新日:2021.05.16 06:00
日本でもっとも有名な女性登山家の名前を問えば、間違いなく田部井淳子さんの名前があがる。1992年、女性として世界で初めて7大陸最高峰の登頂者となり、1995年には内閣総理大臣賞を受賞している。
淳子さんは、世界で初めてエベレストに登頂した女性でもある。1975年5月16日のことだ。この遠征隊は、日本人女性15人だけで構成されていた。
【関連記事:登山家・三浦雄一郎、不摂生の極みからエベレスト登頂へ】
「エベレスト登頂に成功したのは5月16日でしたが、5月4日に彼女たちは雪崩にあっているんです。彼女も全身に打撲を負いました。幸いシェルパに掘り起こされて無事だったのですが、6日に新聞社から『重体だ』と連絡があったときは、『やられたか』と……。
翌日には、打撲の程度も軽いことがわかったので、『彼女ならやり切って帰ってくるだろう』と思って、安心して待ちました。
女性が初めてエベレストに登頂したことは、大きく報じられました。もちろん嬉しかったものの、あまり驚きはありませんでした。彼女は、エベレスト以外にも厳しい山をたくさん登ってきましたし、その積み重ねを横でずっと見てきましたから」
こう語るのは、淳子さんとともに数々の山へ登り、また人生のパートナーとして長年連れ添った、夫の田部井政伸さんだ。
2人が出会ったのは社会人になってからだが、きっかけはやはり山だった。
「当時、私はホンダの山岳部に所属して、毎週末、あちこちの山に出かけていました。彼女も山岳会に入っていたので、毎週どこかで見かけるんです。当時、女性クライマーは数えるほどしかいなかったので、目立った存在でした。
最初に話した場所は、群馬と新潟の境にある谷川岳一ノ倉沢でした。僕らが小休止していたところに、彼女の団体がやってきたんです。
あの日はGW明けでまだ残雪があったので、僕らは小豆を持参して『氷小豆』を食べていました。彼女にも『どうですか』とおすすめしたのを覚えています。それから山で会うと他愛もない会話を交わし、だんだん街でも会うようになりました」(田部井政伸さん、以下同)
3年ほどの交際を経て、2人は結婚する。面白いことに、結婚したからといって、いつも一緒に山に登っていたわけでもなかった。
「お互いカレンダーに予定を書き込んで、片方が山に出るときは、片方はそこに合わせて自分の仕事や家のあれこれをこなすようにしていました。子供が生まれてからも、ずっとそんなスタイルでした。
一緒に登山する機会が増えたのは、やはり定年後です。国内外問わずあちこち行きました。1992年に、彼女が7大陸最高峰に登頂したことがニュースになりましたが、だいたいの山は一緒に登っています」
淳子さんは、自らのことを「登山家」とは言わなかった。そこには淳子さんなりの考えがあったという。
「結婚した翌年、ヨーロッパの山でひどい凍傷になって帰ってきたとき、彼女から『親から五体満足でもらった体を、たかが山登りで傷つけるなんて』とこってり絞られました。
やはり、彼女は『登山は趣味』という思いが強くあったのです。プロの登山家だから登るのではなく、あくまで楽しいから登るものだと捉えていました。
いろんな取材や講演会には登山家として呼ばれるのですが、『主婦でいいのよ。それか、登山愛好家ぐらいにしてほしいわ』と言ってましたね(笑)」
淳子さんは、結婚から2年後に「女性だけで海外遠征を!」と呼びかけ、「女子登攀クラブ」を作る。翌年には、初の海外遠征を成功させ、ついに女性だけでエベレスト登頂に成功する。
登頂したときの心境を、後にNHKのインタビューで「まったく音がなくて、パタパタパタと風が旗に当たる音しかなかった。ああもう終わった。ホントにもう登らなくていいんだなって(思った)」と明かしている。
淳子さんはその後も精力的に活動を続けていく。60代で乳がん、70代で腹膜がんを患っても、治療の合間には山へ登った。2016年の夏、東北の高校生たちと富士山へ登ったのが、最後の登山になった。
「亡くなってから5年たちますが、いまだに彼女がいなくなったことに納得していないんです。
実は、まだ納骨もしていません。どこか海外の遠い山に行ったのかなとか、『ごめんごめん、寝すぎちゃった』なんて言いながら階段を下りてくるんじゃないかな、と思っているところがある。自分のなかで整理がつくには、もう少し時間がかかるんでしょう」
※写真提供・一般社団法人田部井淳子基金