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福沢諭吉も食べた「ミルクキャラメル」先駆的な販売戦略で大ヒット/6月10日の話
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2021.06.10 06:00 最終更新日:2021.06.10 11:02
1913年(大正2年)6月10日、森永ミルクキャラメルが発売された。
アメリカのパン屋や菓子工場で働いた森永太一郎は、1899年(明治32年)に帰国し、まもなく東京・溜池で小さな菓子工場を作った。当時、マシュマロが人気だったが、森永はまだ珍しかったキャラメルの製造に力を入れていく。
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しかし、バターやミルクを大量に使用したキャラメルは、当時の日本人にとって香りや味が強すぎ、嗜好に合わなかった。そのため、顧客は帰朝者や日本に住む西洋人ばかり。三田に住んでいた福沢諭吉家からも毎週多少の注文があったが、あくまで注文生産のレベルだった。
風味以外に、保存性にも問題があった。高温多湿の日本の気候では、すぐにキャラメルが傷んでしまうのだ。実際、創業後初めて迎えた梅雨の時期に、傷んだ洋菓子が次々に返品されるという苦い経験もあった。
だが、明治も終わりに近づくと、乳製品の栄養価に注目が集まる。日本人のなかにもバターやミルク愛好者が増えてきたのだ。そこで森永は、乳製品配合を増やし、1913年、初めて「ミルクキャラメル」を発売する。
当初は1粒5厘のバラ売りだったが、1914年、20粒入り10銭で紙サックに詰めて発売したところ、爆発的に売り上げたという。
ミルクキャラメルが爆発的に売れた背景に、緻密なマーケティング戦略があったと明かすのは、埼玉学園大学の薄井和夫教授だ。
「森永は、商品を販売するため、積極的なキャンペーンを張りました。
福沢諭吉が発行していた新聞『時事新報』に販売店の一覧を全面広告で出したり、新進気鋭の画家にポスターを描かせるなど、大々的な宣伝を始めます。
自動車宣伝隊を組織し、車から広告入りの紙飛行機を大量に飛ばしたり、全国の主要都市で『森永デー』に商品を配布したり、また映画館でも大がかりな宣伝を繰り広げました。
販売に貢献したのは、森永製品を扱う『森永ベルトラインストアー』という小売店です。これは現代のフランチャイズのようなもので、看板や売り子のユニフォーム、店舗のレイアウトなどすべてを洋風に統一したのです。
こうした販売戦略は、当時の洋菓子業界としては最先端のもので、まさに先駆的だったと言えます」
ミルクキャラメルの大成功が、今の森永製菓の基礎になった。
「欧米ではキャラメルの種類が多く、料理に使うドロドロしたものもあります。しかし、ミルクキャラメルがヒットしたことで、日本人はキャラメルと聞くと、硬いキャンディータイプを思い浮かべるようになったのです」
キャラメルで大成功した森永製菓は、1918年、初のカカオ豆からの一貫製造による国産ミルクチョコレートを発売する。日本人は、キャラメルとチョコレートで、洋風の味に親しんでいくようになったのだ。
写真・森永製菓