「あつまれ どうぶつの森(あつ森)」は、2020年を席巻したコンテンツである。世界市場での累計出荷本数は優に3000万本を超え、4000万本にも迫ろうかという勢いだ。
「あつ森」は無人島での生活を楽しむコンテンツである。最初にこの世界にアクセスすることを「移住」と呼ぶが、この表現がすべてを表している。この世界に行き、住むのだ。
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マネタイズするときのカテゴリで言えば、「あつ森」は紛れもなくゲームなのだが、これをゲームと呼ぶのはやや躊躇がある。
ゲームはそれがどんなゲームであっても、その世界に没入して楽しむものなので、すべてが仮想的な世界だと言うこともできる。ただ、ゲームをゲームとして成立させるためには、そこに物語を配置し、利用者には解くべき謎や、超えるべき障壁を与えるのが一般的だ。仮想的な世界を構成するコンテンツはいくつもあるが、これらがゲームを成立させる要件である。
だが、「あつ森」にはそれがない。ゲームデザイナが用意したシナリオや遊び方を超えて、ゲーム世界に住むようにプレイする利用者は以前から存在した。「あつ森」は最初からその遊び方にオールインした世界が構築されている。
「ゲームではない」とまでは言わないが、利用者が望む生活を実現するためのもう一つの世界、仮想現実としての色合いが濃いコンテンツだ。
利用者は建築や造園、裁縫、商品の売買を通して、世界と関わっていく。釣りや昆虫採集をしてもいい。ただ自然の営みを見て時間を過ごしてもいい。今、リアルの世の中で得にくい、世界と関わる実感を得ることにゲームリソースの多くが割かれている。
■新しいシナリオを発見する喜び
何かがありそう。
そう感じて、野山を歩き回り、実際に小動物や野鳥を探し、発見する。自分が世界に対して予感したことを探索して、それに見合った発見と体験が与えられることは純粋に喜びである。
しかし、多くの個人が発信手段を持ち、検索エンジンの高度化によってそこへアクセスすることが容易になったリアルでは、「自分だけの新たな発見」や「世界が自分に示してくれた恩恵」は、極めて希少なものになっている。たいていのことは、すでに誰かがやっているのだ。
もちろんそれは、近年の社会の可視化がそうさせただけであって、昔だって状況は同じだったはずだ。しかし、それを見る手段がなかったので、個人の主観としては自分だけの発見や自分が成し遂げたことが存在した。
それがコミュニケーションやストレージがコモディティ化することによって、見えるようになってしまった。検索エンジンを使わなければ、見ずにすますことはできる。でも、それも難しい。見なければ損をするからだ。
すでに答えの出てしまった他人の行いや選択をなぞるように生きることに楽しさはない。でも、楽である。効率もいい。だから私たちはレビューのよい予備校に通い、就職実績の豊富な学校に進み、なるべくホワイトそうな企業の門を叩く。まったく他人の情報、他人の人生を活用しなければ、面倒見の悪い学校やブラック企業に至る可能性が高まる。
私たちはそういう社会に慣れてしまったし、積極的にそれを強化することに加担してもいる。何が許しがたいといって、自分だけが蚊帳の外におかれて損をすることほど業腹なこともないからだ。
ゲームですら、ここ数十年でシナリオのルートを表示することに躊躇がなくなった。物語形式のゲームでシナリオが割れるなど、過去には禁忌でしかなかったが、そうするとバッドエンドへの分岐しか見つけられないかもしれない。用意されているエンディングのすべてを味わい尽くせないかもしれない。
だから、シナリオを可視化してしまうのである。ルートは何本あって、エンディングは総数でいくつ。全部楽しむまで頑張りましょう、というわけだ。支払った金額に見合った楽しみを得たり、すべての利用者に平等にゲームを楽しんでもらうためには必要な措置かもしれないが、新しいシナリオを発見する喜びは失われた。
そう、私たちは他人を参照して自らの生活を効率化することに飽きたのだ。あつ森はそこに働きかけるコンテンツである。この世界にはまだ発見があると。
任天堂はこの欲求を満たすコンテンツを生み出すことに、本当に長けている。常軌を逸するほどの高評価を得ている「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」も、あつ森とまったく違うカテゴリのコンテンツに見えて、楽しさの本質は同じ箇所に設置されていると思う。何かするたびに発見があるのである。
ただし、それはリアルではない。
釣りをするにしても、リアルの釣りは快適なことばかりではない。炎天下でアタリを待ち続けた挙げ句に釣果がないかもしれない。仕掛けづくりは面倒で、ハリに生き餌をつけるのはちょっと気持ち悪いかもしれない。
あつ森や「ブレス オブ ザ ワイルド」では、そんな体験はさせない。釣りに限らず、すべてがそうだ。リアルのように「何かがありそう」でもそこにアクセスするために熟練や忍耐が必要だったり、センスのよい人だけが「感じ取る」ものではない。世界の秘密へのアクセスは誰にでも開かれている。
何かを乗り越える喜びは感じさせるが、それは決してわずらわしかったり、時間がかかったりはしないのだ。あつ森もまた、リアルからいいとこ取りをした仮想現実である。
■フリクションのゼロ化
もう一つ、あつ森を特徴づける要素がある。
SNSの本質はフィルターバブルにある。同質者集団を囲い込んで、外部をマスクすることでその空間を快適に演出するビジネスである。ただ、SNSは過渡的な技術で構成されているので、まだ世界のほんの一部に過ぎないし、人の時間のわずかな区間しか切り取れていない。それを「もう一つの世界」にまで拡張するのがメタバースだ。
では、あつ森はどのようなメタバースを形作っているのだろうか。あつ森全体をフィルターバブルと捉えるには母集団が大きすぎるし、あつ森の中でコミュニティは細分化されていて、本当のフィルターバブルはそちらにある。しかし、あつ森自体が持っている傾向もある。
それは、フリクションのゼロ化である。
フィルターバブル自体がフリクションを減らして、他者との無用ないさかいを減らす目的と効用を持っているが、あつ森はサービスの総体がそこを目指している。
他人とレスバ(レスバトル:コミュニケーションシステム上における論争。相手が足腰立たなくなるまで叩き合う)する気まんまんの利用者はあつ森には来ない。レスバをするシステムが整っていないし、それを志向した利用者もいない。
フィルターバブルは異属性の利用者を排除するしくみだが、あつ森が慎重に排除し、マスクしているのは、他者とのフリクションなのだ。
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以上、岡嶋裕史氏の新刊『メタバースとは何か ネット上の「もう一つの世界」』(光文社新書)をもとに再構成しました。話題の「メタバース」の基礎から未来の可能性までを紹介します。
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