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なぜヤマハはヴァイオリンを製作しなかったのか…国産楽器が世界中を席巻した時代があった!

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2024.01.28 11:00 最終更新日:2024.01.28 11:00

なぜヤマハはヴァイオリンを製作しなかったのか…国産楽器が世界中を席巻した時代があった!

 

 東京・深川に住むひとりの和楽器職人が、横浜や神戸といった外国人居留地ではなく東京・神田駿河台のニコライ堂(東京復活大聖堂)の楽士デミトリーを訪ねた。彼が所有するヴァイオリンを見せてもらうためである。松永定次郎その人である。

 

 1880年(明治13年)、こうして和楽器職人・松永定次郎の手によって国産第1号のヴァイオリンが製作された。1900年(明治33年)にはヤマハもアップライト・ピアノの製造を開始した。西洋楽器にとっても、文明開花だったわけだ。

 

 

 江戸時代末期の1859年(安政6年)、のちに日本のヴァイオリン王と呼ばれることになる男が名古屋で生まれた。鈴木政吉である。政吉の父・鈴木正春は尾張藩の御手先同心。5石3人扶持であった。手先が器用で琴・三味線作りの内職もしていた。

 

 11歳になると政吉は名古屋藩(旧・尾張藩)の音楽隊太鼓役になった。幕末から各藩は外国式の軍隊教練を導入していて、各種訓練に用いられたのが太鼓とラッパだったのだ。

 

 名古屋藩はイギリス式の教練を採用していたが、明治政府の方針でフランス式に統一された。フランス式はラッパのみである。そのため政吉は失職してしまうわけだが、運よく藩の洋学校に入学し、中退してからは父親の琴・三味線作りを手伝うようになった。

 

 父・正春は廃藩にともない家禄を奪われ、本格的に内職だった琴・三味線作りを本業にしていた。1877年(明治10年)、鈴木政吉は18歳で家督を相続。三味線作りの傍ら、親の勧めで長唄の稽古に通うようになった。

 

 1884年(明治17年)、父・正春が亡くなる。政吉は名古屋・御園筋の老舗ツルヤに三味線を卸していて彼は三味線の名工として全国に名が轟いていたが、不景気で楽器の売り上げが落ちていた。そして、近藤乃婦という女性との結婚を経て、小学校の音楽教師(唱歌教師)への転身を決意した。約8年間稽古をした長唄がここで生かされたのである。

 

 政吉は愛知県師範学校音楽教師の恒川鐐之助(1868年生まれ)について勉強しているうちに、思わぬ楽器と出会う。同門の甘利鉄吉が横浜で買ったという和製ヴァイオリンである。三味線作りの名工だった政吉は徹夜でそれを模写し、わずか1週間でお手製のヴァイオリンを製作した。

 

 仕上げた国産第2号のヴァイオリンが売れるに至り、本格的にヴァイオリン製作に着手することになる。これが1887年(明治20年)あたりなので、松永定次郎によって国産第1号のヴァイオリンが製作されてから10年もたっていないのだから驚く。

 

 まさに日本における西洋楽器、特にヴァイオリン製作はブルーオーシャン状態。そこへ楽器作りの名工である若き日の鈴木政吉が目をつけたのだ。

 

 これは、同世代の名工、山葉寅楠(1851年、和歌山生まれ)がオルガンの修理を頼まれ、高価な西洋楽器なくせに構造はとてもシンプルなことに気づき、オルガン、そしてピアノ作りにつなげていくというエピソードを思い出す。この山葉寅楠こそ、現在のヤマハ(日本楽器製造)の創設者だ。

 

 政吉自作のヴァイオリンを見た音楽教師の恒川は自分でもヴァイオリンがほしくなって関東から取り寄せた。届いてみると運送の際の不手際でヴァイオリンのネックが少し離れてしまったため、政吉に修理を頼んだ。政吉は1日で済む作業を3日かけ、新しいヴァイオリンを作るお手本に活用した。そして、前回より出来のいいヴァイオリンが完成したというわけだ。

 

 政吉は岐阜県尋常師範学校に舶来のヴァイオリンがあると聞き、さっそく自作のヴァイオリンを手にして岐阜を訪れた。比較をしてみると月とスッポンだったというが、その一方で舶来品のヴァイオリンは日本独特の湿気のせいで板がはがれていた。

 

 またしてもその修理を任された政吉は、修理の作業をしながらも徹底的に本場のヴァイオリンを生のサンプルとして研究することができたのだ。

 

 政吉の頭を悩ませたのはヴァイオリンのボディの素材である。第1号は杉の木、第2号はトチの木を使用した。知人のアドヴァイスによって表板がエゾマツ、裏板と横板とネックがカエデであることを突きとめた。塗られているニスについても暗中模索であった。

 

 こんなふうに、政吉は寝食を忘れてヴァイオリン作りに没頭した。こうして政吉は三味線屋を廃業し、ヴァイオリン作りに生涯を捧げようと決意したのだ。

 

世界で売れまくる和製ヴァイオリン

 

 1890年(明治23年)より本格的に楽器生産をスタートさせた政吉は、折りからの日清戦争(1894年~1895年)勝利による好景気に支えられ波に乗った。1890年(明治23年)の「第3回内国勧業博覧会」には自らのヴァイオリンで3等有功賞を得た。この時、山葉寅楠のオルガンも2等有功賞だった。

 

 1900年(明治33年)の「パリ万国博覧会」への参加を政府よりうながされた政吉は選外佳作にとどまったものの、1909年(明治42年)にシアトルで開かれた「アラスカ・ユーコン万国博覧会」で金メダルを受賞する。政吉のヴァイオリンは欧州市場に大きなインパクトを与えたのだ。

 

 1914年(大正3年)に勃発した第一次大戦は、世界の楽器市場にも影響を与えた。ヴァイオリンの生産を多く担っていたドイツが戦禍にまみれ、生産がおぼつかなくなったのだ。そこで政吉のヴァイオリンに注目が集まった。世界中から発注が舞い込んだ。政吉のヴァイオリンは世界に向けて輸出されたのである。

 

「当時従業員は1000名を越え、毎日500本のバイオリン、1000本以上の弓が量産され、輸出のみで年間に10万本のバイオリン、50万本の弓を記録したといわれています」(「鈴木バイオリン製造」の公式webサイト)

 

 というから凄まじい勢いだ。

 

 山葉寅楠の日本楽器製造も第一次大戦の影響でハーモニカの需要に応えられなくなったドイツに代わり、世界中にハーモニカを売りまくった。当然のことながら彼らはヴァイオリンのブームにも注目していた。

 

 日本楽器製造はひそかにヴァイオリンの試作を行い、専用の機械まで開発していたが、双方の合意により日本楽器製造はヴァイオリンの製作を断念した。この時、政吉はオルガンを作らない、日本楽器製造はヴァイオリンを作らないという取り決めがなされた。間に入ったのは両者の商品を扱っていた大阪の三木佐助だったという。

 

 日本楽器製造がヴァイオリンに再参画するのは、2000年(平成12年)まで待たなければならない(電子楽器のサイレント・ヴァイオリンは1997年より製作していた)。

 

 

 以上、本間ひろむ氏の新刊『日本のヴァイオリニスト 弦楽器奏者の現在・過去・未来』(光文社新書)を元に再構成しました。ヴァイオリニスト、ヴィオリスト、チェリストたちが歩んできた苦闘と栄光の物語。

 

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